バナナの選択
                バナナは、生きるために、子孫繁栄の選択権さえも人類にゆだねたんだ。 一生懸命に生きるって?                 生きる、ということにおいて、僕たちの決意なんて、 バナナの勇気の百分の一にも及ばないよ。         ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

No.170731 S氏の憂鬱

 その人形は、町の外れのゴミ捨て場に捨ててあった。そこを通りかかったS氏は、その人形と目が合った。かわいらしい女の子の人形だった。見たところ、少しも傷んでいない。くり色の巻き毛、ぱっちりとした大きな瞳、小さなピンク色の唇、何もかもがかわいらしい。が、S氏はまったく興味がなかったから、そのまま通り過ぎようとした。と、その時、人形は、ころりと転んで、S氏の足元に転がった。そう。あたかも、あたしを拾ってください、と言わんばかりに。

 S氏は無表情で足元の人形を見下した。なぜなら、まったく興味がないから。そもそも人形に興味がないし、そういう偶然の不思議めいた出来事にはなおさら興味がなかった。S氏は不機嫌にぼそぼそとつぶやいた。「ええと。なんで、僕が、この僕が、きみのようなゴミ捨て場に捨てられた人形にかかわらなくちゃいけないのかな。きみはゴミだよね。ゴミ捨て場にあるのだから、きみは確かにゴミだ。悪いけど、僕はゴミなんかに興味ないんだけど」そう言って、S氏は、足元に転がった女の子の人形をことさらに忌避しているがごとくに大きく迂回してゴミ捨て場を後にした。

 翌日は雨だった。S氏がゴミ捨て場を通りかかると、女の子の人形は、汚らしい水たまりに浸かっていた。S氏は無表情でため息をついた。「ああ、いやだ。いやだ。僕には何のかかわりもないのに。こんな汚らしい人形になんか、何の興味もないのに。くどいほど、そう言っているのに、こいつは、こうやって、僕に惨めたらしい姿を見せて僕の同情をさそうわけだ。ちっとも同情しないけどね。汚らしい」と、そう言って、S氏は大仰なおおまたで、水たまりに浮いた人形をまたいで歩み去った。

 翌日。S氏がゴミ捨て場を通りかかると、醜い野良犬が、人形にかじりついていた。S氏はさすがに顔をしかめた。なんという醜さだ! と思った。犬が、ではない。人形が醜いのだ。ゴミ捨て場に捨てられ、通行人の足元に転がって媚びを売り、雨に打たれて同情をさそい、あげくに野良犬ごときにわざわざ凌辱される姿をさらして憐れみを請うている。この心情の醜さはどうだ。プライドのかけらもない。見たところ高級そうなつくりの人形ではないか。可愛らしさの中にも品のある顔ではないか。本来であれば富豪の令嬢の部屋にあってもおかしくない人形なのだ。それが、かくもぶざまな醜態をさらしている。S氏は激しい怒りを覚えた。「えい。あっちへ行け。このくそ犬め!」と野良犬をステッキで追い払うと、あちこちドレスの破れた人形を手にした。そうして、「なにをやってるんだ。え? きみは、こんなところで、なにをやってるんだ!」と人形に怒りをぶつけた。人形は微笑んだまま黙っている。「よろしい。わかった。僕がきみを本来の姿に戻してあげる」S氏はそう言うと、人形を抱いて家に帰った。

 S氏は、人形を机の上に座らせると、汚物にまみれたその小さな顔をアルコールをしみこませた脱脂綿でやさしく拭いてやった。もともとかわいらしい顔が、つるつると光って、ますますかわいらしくなった。「そうだ。これが、きみのほんとうの顔だ」と言って、S氏は微笑んだ。そうして、よごれがこびりついて絡まっていたくり色の髪をきれいにといてやった。ふわふわとしたやわらかい巻き毛はつやつやと光をおびた。「そうだ。これが、きみのほんとうの髪だ」と言って、S氏は人形の髪をなでた。と、その時。人形の首が、がくりと折れた。S氏はぎょっとして、あわてて人形の首を支えたが、人形の首は胴から外れてしまった。右手に頭を、左手に胴を持ったまま、S氏は、呆然とした。すると、首がとれた胴の首の穴から、真っ黒な汚泥がどろどろと流れ出てきた。「わっ! なんだこりゃ。うわっ! く、くさい!」あまりの悪臭と気持ち悪さに、S氏は左手に持っていた人形の胴を放り出した。どたりと音を立てて床に転がった人形の胴の首の穴からは、さらにどろどろと汚泥が流れ出ている。はっとして右手の人形の首をみると、その首の切り口からも、真っ黒な汚泥がだらだらと流れている。「わっ!」と言ってS氏は人形の頭を投げ捨てた。人形の頭は、ごろごろと床を転がって、S氏の方を向いて止まった。人形の目がS氏を見つめていた。S氏は、人形の目から視線を外した。そうして、「きみは、ゴミ捨て場にいるのが長すぎた。残念ながら、きみはすでに、心の底まで、体の芯までゴミに汚染されて腐ってしまったのだ。もうすこし早く、きみに出会っていれば、まだどうにかなったのかもしれないがね。遅すぎたよ。あきらめよう。ゴミはゴミ捨て場に戻るがいい」と、自らを諭すようにつぶやいた。

 翌日、ゴミ捨て場には、首と胴の離れた女の子の人形が捨てられていた。その後、人形がどうなったのか、誰も知らない。