バナナの選択
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                バナナは、生きるために、子孫繁栄の選択権さえも人類にゆだねたんだ。 一生懸命に生きるって?                 生きる、ということにおいて、僕たちの決意なんて、 バナナの勇気の百分の一にも及ばないよ。         ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

No. 170401 水あめと夕陽と。

 僕が幼稚園の頃住んでいた市営住宅の近くの公園には、毎夕、紙芝居屋のおっさんが自転車でやってきた。紙芝居屋のおっさんが鳴らすチリンチリンという鐘の音が聞こえると、子どもたちは10円玉を握りしめて公園に走る。公園では、おっさんの自転車の前に子どもたちが行列をつくっている。おっさんから水あめかドーナツを買うのである。子どもたちの目当ては、水あめだ。固くて甘くもないドーナツをほしがる子どもはひとりもいない。おっさんの自転車の荷台にはパチンコ台が置かれている。そのパチンコ台の上部に開いている穴に10円玉を入れると、10円玉が釘の間をころころと左右に転がりながら落ちて、水あめの穴かドーナツの穴かのどちらかに落ちる。水あめの穴に落ちれば、水あめがもらえる。こどもたちは、やった!と喜んではしゃぐ。ドーナツの穴に落ちれば、はずれだ。子どもたちはがっかりする。あんまりがっかりすると、おっさんは、もう一回やらせてくれる。それでもだめだと、またやらせてくれる。そうして結局、みんな水あめにしてくれる。水あめは、パチンコ台の下の引き出しのブリキの箱にたっぷりと入っている。おっさんは、短く切った2本の割りばしをその水あめの中にさしこんで、ぐいっとひとかきして、割りばしの先に水あめのかたまりをつけてくれる。そうして、そのかたまりの先に、ちょんと、食紅をつける。子どもたちは、その水あめを受け取ると、2本の割りばしを1本づつ左右の手で持って、水あめのかたまりをぐるぐる回し始める。そうすると、食紅が水あめのかたまり全体にまざって、透明の水あめのかたまりが徐々にピンク色になっていく。それが楽しくてたまらない。おっさんは水あめを配り終えると、荷台の箱の上に折り畳み式の舞台を開いて紙芝居を始めるのだが、子どもたちはみんな水あめをぐるぐる回すことに夢中で、だれも紙芝居なんか見ていない。水あめは、ピンク色に染まるにつれて、空気をふくんでやわらかくなり、つやつやとひかりはじめる。そうして水あめがもう割りばしから落ちそうになるほどとろけてくると、その美しくピンク色に染まった水あめのかたまりを、ぱくっと、口の中に入れて、そのまったりとした食感と甘さを堪能する。この瞬間が幸せでないとすれば、この世に幸せはないであろう。子どもたちはみな、2本の割りばしの切れ端を口に入れて、恍惚としている。おっさんはひとりで弁舌をふるってだれも聞いていない紙芝居を終えると、ぱたぱたと片づけをして、自転車に乗って去っていく。子どもたちは口に割りばしをくわえたまま、それぞれの家に帰る。あるいはそのまま、公園で遊んでいく子たちもいる。運動がちっともできない僕は、ブランコも鉄棒も大嫌いだったから、たいていはそのまま家に帰った。

 その日も、おっさんの紙芝居なんか見もせずにひたすら水あめをぐるぐる回して、ぱくっと、水あめを口に入れて至福の瞬間を堪能したあと、僕は家に向かって歩いていた。そのとき、どういうきっかけだったのかわからないが、僕は、ふっと公園を振り返った。すると、公園のむこうの空に、巨大な夕陽があった。わあ、おおきい!と思った。僕は、あんな大きな夕陽を、あの日以来見たことがない。あの日見た夕陽が、僕にとってのほんものの夕陽であり、それ以外の夕陽はすべて、にせものにしか思えない。ほんものと思える夕陽を、生涯で一度だけ見た。そしてもう、二度とはないだろう。それは、不幸ということになるのか、どうか。

 それからしばらくして、紙芝居屋のおっさんは来なくなった。水あめなどの食品の衛生状態が問題になって、保健所が禁止したという話だった。