バナナの選択
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                バナナは、生きるために、子孫繁栄の選択権さえも人類にゆだねたんだ。 一生懸命に生きるって?                 生きる、ということにおいて、僕たちの決意なんて、 バナナの勇気の百分の一にも及ばないよ。         ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

No. 170305 よしまつさん。

 よしまつさん。としか覚えていない。もう何十年もむかし。僕が小学校二年生の頃。よしまつさんは、クラスでいちばん、かわいい女の子だった。色白の丸顔で、二重の大きな目をしていて、髪を赤い玉のついたゴムで二つ結びに束ねていた。明るくて、いつも笑っていた。そうして、いちばん頭も良かった。だから当然、クラス中の男子がよしまつさんに憧れた。僕もそのひとりだった。けれども僕は、ひとことも彼女と話せなかった。話す資格がなかったのである。僕は、ちっとも勉強ができなかった。足し算さえよく分からなかった。さすがに母親が心配して、毎晩付きっきりで宿題の面倒をみなければならないほどだった。運動もぜんぜんできなかった。跳び箱もとべず、かけっこも一番遅かった。鉄棒は前回り以外は何一つできなかった。ドッジボールのボールを前に投げることもできず、僕の投げたボールは地面にぽたりと落ちた。勉強も運動もできない何のとりえもない僕が、何もかも優れたよしまつさんに話しかける機会など、あるはずがなかった。僕はただ、遠くから彼女を見ているだけだった。

 その日、何が僕にその勇気を与えたのか分からない。教室の掃除の時間。僕は、ほうき係で、教室の隅で、ほうきを持ってぼんやりと立っていた。その僕の前を、よしまつさんが雑巾をもって通り過ぎようとした。僕はほとんど無意識のうちに、ほうきを差し上げると、よしまつさんの頭に、ほうきの先をちょんと当てた。よしまつさんの髪がふわりと、ほうきの先にからんだ。よしまつさんが僕の方を見て、笑いながら「××××ね」と、何か言った。が、僕は、自分がやってしまったことに気が動転してしまって、よしまつさんが何を言ったのか耳に入ってこなかった。彼女のにこにこした笑顔と、何かを話す唇の動きだけが目に入ってきた。そうして、よしまつさんはそのまま、僕の前を通り過ぎて行った。僕は、ほうきを持ったまま、たった今の信じられない光景にとまどっていた。どういうわけで、憧れのよしまつさんに、そんないたずらをしたのか、自分でもさっぱり分からなかった。けれども、そんないたずらをした僕に、彼女は笑顔を返してくれた。よしまつさんは僕をきらいじゃないんだ。と、そう思って、僕はうれしくなった。すると、その直後、ひどいことが起こった。

 僕がよしまつさんにいたずらをして、よしまつさんが笑ったことを、クラスの男子たちが目撃していたのである。彼らは、幼いながらに、いや、幼いからこそ直接的に、嫉妬と怒りによる卑劣な行動にでた。愚かな彼らは、よしまつさんを取り囲み、「〇〇(僕の名)とよしまつは、けっこんするそうです!」と大声で何度も連呼してげらげら笑った。近くの浜辺をうろついているきたない野良犬の群れのようであった。よしまつさんは泣き出してしまい、自分の机に突っ伏して、次の授業がはじまるまでしくしく泣き続けた。僕は、僕のせいでよしまつさんがひどい目にあってしまったことに責任を感じて、つまらないいたずらをしたことをひどく後悔した。そうして、もう二度と、よしまつさんに迷惑をかけないように、彼女にいっさい、かかわらないようにしようと思った。

 それからしばらく経ったある日の図工の時間。僕たちは厚紙で箱をつくる工作をしていた。すると、席の離れていたよしまつさんが、どういうわけか僕の席まで来て、「テープかして」と言って、にこにこ笑った。僕は、よしまつさんがわざわざ僕のところにセロテープを借りに来たことに驚いて、あたふたしたが、先日のいたずらのことがすぐに思い出されて、僕なんかが彼女と仲良くしたらいけないんだと思って、「かさない!」と、わざと大きな声で言った。よしまつさんはちょっとかなしそうな目をしたけれど、笑顔のままで、「えー。なんでー」と言って、自分の席に戻って行った。

 それから間もなくして、よしまつさんは転校した。夏休みが終わって学校に来てみると、よしまつさんの姿はなかった。それ以来、二度と会っていない。よしまつさんの記憶は、彼女にセロテープを貸さなかったことへの後悔で終わっている。なぜ、あの時、セロテープを素直に貸してあげなかったのだろう。なぜ、あの時、つまらない意地をはって、よしまつさんにかなしい目をさせたのだろう。できることならば、あの時に戻って、セロテープを貸してあげたい。そうして、当時の彼女に聞いてみたい。僕がいたずらをしたあの時、君はいったい、何と言ったのか。と。