バナナの選択
                バナナは、生きるために、子孫繁栄の選択権さえも人類にゆだねたんだ。 一生懸命に生きるって?                 生きる、ということにおいて、僕たちの決意なんて、 バナナの勇気の百分の一にも及ばないよ。         ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

No. 170226 だれも救えずに。今日も、また。

 京子は、青森出身の子だった。東京の私大に進学はしたけれど、青森の実家は貧しくて学費を出せなかった。そこで京子は学費をかせぐために、まだ未成年でお酒も飲めなかったけれど、僕のかようバーでバイトをしていた。そうしてそれでも生活費が足りずに、朝夕の新聞配達をしていた。バーで深夜2時まで働き、朝5時には新聞配達をするのである。そうして昼間は学校に行き、夕方には夕刊を配達し、月末には新聞代の集金もやる。文字どおり、寝るひまもない。京子は、その年の3月に東京に出てきて以来、そんな毎日をもう数カ月続けていた。体がもつわけがなかった。僕も学生時代には住み込みの新聞配達をやって学費をかせいでいたから、それがどれだけたいへんなことか分かっていた。まして、バーでバイトしながら新聞配達を続けるなんて、無茶苦茶もいいところだ。その話を京子から聞いた僕は、無理だ、そんなんじゃ、絶対にやっていけない、と京子に断言した。そうして京子に、どうにかして、べつの方法を考えるように言った。どうしてもダメなら、青森の地元の大学に入りなおせ、とまで言った。東京でなくてもいいではないか。なぜ、そこまでして東京なのか。と。けれども、京子は、むっとした顔で僕に激しく反論した。東京に出てきたかったんだもん!東京じゃなきゃいやなんだもん!ぜったいに、青森なんかには帰らない!余計なお世話よ!と。僕も言い返した。だから、絶対に無理だと言ってるだろう!体をこわして、大学も続けられなくなって、取り返しがつかないことになるぞ。と。僕にはもう目に見えていたのである。すでに目の下に真っ黒にクマをつくって、未成年のくせにがぶがぶ酒を飲むようになって、大学の授業など出ている様子もなく、おそらくは朝の新聞配達が終わればそのまま夕方の夕刊配達の時間まで眠り込んで、夕刊が終わればバーに出てきて男たちを相手に深夜まで働く毎日の繰り返しで、何のために東京に出てきたのか、もはや目的を見失い、大学の単位もろくに取らずに進級も絶望的で、そういう不安から逃れるために飲みなれない酒をがぶがぶ飲んで、くだらない男どものくだらない下品なジョークにゲラゲラ笑って自分をごまかしている、そういう京子の心身が破綻する限界が切迫していることを、僕はひしひしと感じた。むろん、余計なお世話である。そんなことは分かっている。けれども、僕は、言わねばならぬと思った。言わねば、この子は、破滅する。いや、言ってもたぶん、この子は僕の言うことなど聞くまい。そうしていずれにしても破滅する。けれども僕は言わねばならぬ。そうしてもし、万一、彼女が僕を信じて助力を求めてくれたならば、僕は全力で彼女を救い出すつもりであった。僕は、そのバーに行くたびに、どんどんやつれていく一方の京子をしつこく説得した。けれども彼女は、頑として、僕の言うことを聞こうとはしなかった。

 寒くなった夜、僕は久しぶりにそのバーに寄った。その夜も、京子がいれば、うるさく説教してやるつもりだった。が、京子はいなかった。カウンターにすわると、となりに、みどりちゃんが座った。名前は知っているが、あまり話したことのない子だった。みどりは水割りをつくりながら、京子ね、やめたよ、と言った。なに!?と僕は思わず言った。やめた?いつ?なんで!するとみどりは、気の毒そうな顔で言った。あの子ね、アル中になってたんだって。台所で倒れているところを大家さんが見つけて救急車呼んだらしいよ。で、この間、青森の実家の親御さんが迎えに来て、青森に連れて帰っちゃったんだって。ママのところに、そういう連絡があったんだって。大学もやめるんだって。

 こうなることは分かっていた。分かりすぎるほど、分かっていた。そうして、結局、僕は、彼女を救えなかった。破滅しようとしている女が目の前にいて、何もすることができずに、僕の目の前で破滅した。それを見殺しと言うのではないのか。なぜ、無理矢理にでも、僕の貯金をはたいて金を渡さなかったのだろう。これを学費にしろ、と。それで良かったじゃないか。いや、そんな金を受け取るはずがない。いきなり赤の他人の男から大金をもらう女などいない。なぜなら、そんなことをする男は、ろくでもない下心をかくしているはずだから。女の破滅を見たくない、などという訳の分からない理由だけで多額の金を提供する男など、いるわけがないから。それが、この、きたならしい世の中のきまりごとだから。この世の中に生きる以上、この世の中のきまりごとに従わざるを得ないではないか。彼女を救いたい、などというおまえのこころを信頼する女など、この世にいるものか。しょせん、狡猾な偽善者として嘲笑され、嫌悪されるだけだ。おまえは、やるだけのことは、やった。彼女に忠告したではないか。破滅するぞ、と本気で忠告したではないか。それで十分さ。それが、この世でおまえのできる精一杯のことさ。けれども。と僕は、自分の声に反駁する。それなら、はじめから、何も言わない方がましじゃないか。何も知らないふりをして、くだらない下品なジョークで京子をゲラゲラ笑わせている方が、よほどましじゃないか。破滅する女に、おまえは破滅するぞ、とわざわざ言って、余計なお世話だと嫌悪されて、結局、女が破滅するのを見殺しにしたという忌まわしい記憶だけが残る。ひどい徒労感だ。なんというバカバカしさだ。するとまた、もうひとりの僕が、僕を嘲笑しながら言うのだ。だから、おまえは、おめでたいやつだって言うんだよ。おまえのこころからの忠告なんて、しょせん、余計なお世話なのさ。おまえがいくら彼女を心配したところで、彼女はおまえのことなんか口うるさくて気味が悪い変な客としか思ってねえよ。彼女がアル中になって台所で倒れているところを助けたのは、結局、おまえじゃないんだ。早く家賃を払えと部屋まで催促にきた大家が助けたんだ。こころから彼女を心配していたはずのおまえは何もできずに彼女を見殺しにして、家賃の取立てに来た大家が彼女を助けたなんて、いかにも皮肉じゃないか。このきたならしい世の中にぴったりな笑い話だ。しょせん、おまえは道化さ。ピエロだよ。嘲笑われているだけの、おめでたい、ピエロだ。と。

 僕は、暗澹たる気分で、みどりのつくった水割りを飲んだ。酔う気にもならなかった。これを飲んで、早く帰ろうと思った。すると、みどりが、「なんか、話すの、久しぶりだね」と言った。僕はふと我に返って、「そうだな」と言った。そういえば、この子とは、あまり話したことがない。みどりは、なんとなく、さびしそうな感じの子だった。ずいぶん若い頃に悪い男にだまされた、みたいな話を聞いたことがあったようにも思うが、今ではべつに気にもしていない様子で、ただそういう過去が、彼女の雰囲気をすこしだけさびしくしていたのかも知れない。僕はみどりに、「だって、おまえが話してくれないから。おまえ、おれを避けてただろ」と言って笑った。すると、みどりは、まじめな顔をして、「うん。だって、〇〇さん(僕の名)は京子ちゃんのことが好きなんだって思ってたから。遠慮してたの」と言った。僕はちょっと驚いて、「京子ちゃんのことが好き?おれが?」と言った。みどりは、「うん。だって、いつも、京子ちゃんと楽しそうに話してたじゃん。あたしが話しかけても、ぜんぜん、相手してくれなかったじゃん」と笑いながら言った。そうか。そうだったか。確かに僕は、ずっと京子と話していた。何とかしてこの子を破滅から救おう、と思っていた。けれどもそれは、みどりから見れば、楽しそうに話していたのか。僕は意外だった。僕は、京子と話しているときは、それこそ説得するのに一生懸命で、ちっとも楽しくはなかったから。くるしいだけだったから。けれども。その時の僕は、楽しそうだったのだ。ひとは、笑いながらくるしみを語ることもあるらしい。いや。笑いながらでなければ、そのくるしみに耐えられないのだ。僕自身が気がついていなかった、そのかなしい笑い顔を、みどりだけが見ていた。僕はみどりに聞いた。「おれは楽しそうに話してたか」みどりは言った。「うん。すごい楽しそうだった。だから、あたしも〇〇さんと話したかったのに、話せなかった」そう言って、みどりが不安そうな目で僕を見た。僕はみどりの目を見つめた。僕のこころをのぞこうとして怖がっているような目だった。良い目だ。怖がるな。おれを、信じろ。「おれと話したかったか。じゃあ、きょうは、おまえといくらでも話 すぞ」「うん」「よし。きょうは、おまえと遊ぶぞ」「うん。遊んでよ」「なに。ちゃんともう一回言え」「はい。あたしと遊んでください」「よし。いい子だ」その夜、みどりを相手に、僕は泥酔した。その後どうなったのか記憶もない。