バナナの選択
                バナナは、生きるために、子孫繁栄の選択権さえも人類にゆだねたんだ。 一生懸命に生きるって?                 生きる、ということにおいて、僕たちの決意なんて、 バナナの勇気の百分の一にも及ばないよ。         ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

No. 170218 その愛は10%未満

 その夜、仕事で実につまらないことがあって、いらいらして、何のためにこんな仕事をやっているんだか、何のためにいろんなことで気をつかっているんだか、何もかもがバカバカしく、ああ、つまんねえ世界だ、バカしかいねえ、おまえらのことだ、バカどもが、と、止めどなく怒りが湧いて、くやしくて、かなしくて、さびしくて、泣きたくなって、叫びたくなって、会社から地下鉄までの途中、合コン帰りか何かの酔っ払った若い男女の群れが歩道をふさいでゲラゲラ笑いながらバカ面してふらふら歩いていたから、この低能ども全員を死ぬほど殴ってやろうかという目まいがするほどの強烈な衝動にかられて、それでもどうにかその凶暴な衝動を我慢して地下鉄に乗って、イヤホンの音量全開で耳をふさぎ、ニット帽を深くかぶり、マスクで顔をおおって目を固く閉じ、いまいましいだけのバカしかいない世界を完全拒否して自分だけの空間に閉じこもり、地下鉄のゴトゴトという線路の響きだけを感じながらいつもの駅に帰り着き、地上に出て、やっぱり無理だ、飲まなきゃやってられねえ、記憶がなくなるほど飲んでぜんぶ忘れなきゃ、とてもじゃないが、このまま家には帰れねえ、と、まだボトルが残っているはずのスナックに寄って、そのドアを開けた。

 あら。いらっしゃい。久しぶりじゃん。〇〇ちゃん(僕の名)。と、カウンターのチーママが愛想よく笑った。僕は、ほっとして笑う。少なくともこの店の女たちは、いくばくかのお金を払いさえすれば、僕に不愉快な思いをさせることはないから。僕がカウンターに座ると、いらっしゃい。と言いながら見慣れない女の子がとなりに座って、水割りをつくってくれた。その子は、はい。どうぞ。と水割りを僕の前に置いて、さくらです。よろしくおねがいします。と言った。ああ。さくらちゃんね。はじめてだね。ええと。君。かわいいね。と僕がふざけると、チーママが、さくらちゃん、〇〇ちゃんはわるいひとだから、気をつけなさいよ、と言って笑った。さくらは、はい。気をつけます。と、まじめな顔で答えた。気をつけられちゃ困るんだけど、と僕は笑いながら、水割りをぐいぐい飲んだ。さくらのつくる水割りを、何杯も何杯も飲む。がぶがぶ飲む。アルコールが体中をめぐって心臓が高鳴り、暴走していた脳神経が麻痺していく。僕を不眠症に苦しませるとげとげした意識が鈍磨していく。世界が朦朧となっていく。ああ。救われる。と思う。バカどもで充満した世界の重みに押しつぶされていた僕のたましいが、ようやく息をふきかえす。ボトルがなくなる。新しいボトルをキープして、さらに飲む。ろれつが回らなくなって、目もまともに開いていない。それくらいまで酔った状態が、ちょうど良い気分だ。さくら。こら。さくら。君は、かわいいぞ。うん。僕がかわいいと言ってるんだから、かわいいんだ。などと、そんなくだらない会話を繰り返している状態が、ちょうど良い気分なのだ。そういう良い気分のときに、さくらが、おもしろいことを言った。〇〇さん。愛ってさ。愛って、100%じゃないと、ダメだよね。と。

 ん?と、僕は思わず酔っぱらった目を開いて、さくらの顔を見た。愛が100%?なにを言ってる。さくら。もっとくわしく、おれに話せ。僕がそう言うと、さくらは、ちょっと恥ずかしそうな顔で話し始めた。

 ほら。例えばさ、あたしにさ、誰か好きなひとができて、もう3年くらいつきあってるとするじゃん。でもさ、そのひとには、あたしと出会う前にも彼女がいたとするでしょ。そうしたらさ、あたし、その彼女とつきあっているときの彼までは愛せないじゃない。だって、嫌だもん。あたしの知らない女とつきあって幸せだった頃の彼のことなんて、どうでもいい。知りたくない。だから、彼から、その彼女とつきあってた期間は捨てなきゃいけない。でも、彼の彼女はその子だけじゃないかも知れない。何人もいたかも知れない。そうしたらさ、彼から捨てなきゃいけない期間が、どんどん増えちゃうわけ。で、結局、あたしが好きな彼は、彼が誰ともつきあっていなかった子どものころの彼と、あたしとつきあうようになってからの3年間だけってことになるでしょ。それって、年数で言ったら、合計でたぶん15年くらいじゃない。彼が30歳だとしたら、二分の一。50%だよ。あたしがさ、彼のことぜんぶ愛してるって言っても、ほんとうは彼の半分しか愛してないんだよ。それに、あたし、子どものころの彼なんて、何にも知らないんだから、子どもの頃の彼を含めたらダメだと思うし。そしたらさ、結局、あたしが愛してる彼は、ほんとうは、彼とあたしがつきあい始めてからの3年くらいの彼だけってわけ。それって、彼の10%だよね。しかもだよ。その3年だってさ、あたしがぜんぶ知ってるわけじゃないじゃん。あたしが知ってるのは、あたしと一緒にいるときの彼だけなんだから。仕事しているときの彼とか、ほかの友だちと遊んでいるときの彼とか知らないわけだし。そしたら、結局、あたしが愛してる彼って、彼の3%くらいじゃん。10%もないんだよ。それって、愛って言える?ね。〇〇さん。どう思う?それって、愛って言える?〇〇さんは頭良いんでしょ?東大出たんでしょ?どうなの?教えてよ。教えて!

 さくらはまじめな顔で僕を見つめていた。さくら。好きなひとがいるのか。と僕は言った。さくらは、恥ずかしそうに、うん、とうなずいた。そうか。おまえは良い子だな。彼氏を、ぜんぶ、愛したいのか。彼氏を100%愛したいのか。さくらはまた、うなずいた。そうして言った。でも、無理。だって、この前まで、一緒に住んでた彼女がいるんだもん。いやな女。最低な女。ぜったい、ゆるせない。あんな女と愛し合ってた彼は、やっぱり愛せない。だから、無理。あたしは、あのひとを、100%愛したい。100%愛せないなら、そんなの愛じゃないと思う。彼が生まれてからあたしと出会うまで、彼のぜんぶを愛せないなら、もう、いい。僕が言った。もう、いいって、なんだ、あきらめるのか?さくらは、だって、くやしいもん。と言って、泣きそうな顔でうつむいた。くるしいか。と僕が言った。くるしい!と、さくらが小さな声で、けれど激しく言った。僕はもう酔ってはいなかった。さくらが空になった僕のグラスにまた水割りをつくり始めた。僕は、さくらの横顔を見つめながら、つくづく、良い子だと思った。その少女のような幼さの残る薄紅の頬に、気高い女としてのプライドを感じた。さくらが、その白くて細いのどからしぼりだした、くるしい!という言葉の激しさが、どんな愛の言葉よりも美しかった。この子は、きっと幸せになるだろう。この子が幸せになれないとすれば、この世界にいったい何の意味があるだろう。僕は、さくらの幸せを、神に祈った。真剣に、祈った。