バナナの選択
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                バナナは、生きるために、子孫繁栄の選択権さえも人類にゆだねたんだ。 一生懸命に生きるって?                 生きる、ということにおいて、僕たちの決意なんて、 バナナの勇気の百分の一にも及ばないよ。         ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

No.170211 ある兵士の記録

 僕はむかし、大学生のころ、ある大手の進学塾で非常勤講師のアルバイトをしていて、そこには、僕のような大学生の非常勤講師のほかにも、元中学校の校長先生だったとか、なんとか会社の元部長だったとか、いわば定年後の年金の足しにするために非常勤講師をやっているひとたちも何人かいて、授業のコマの空き時間などには、そういう年配のひとたちと雑談することも多かった。Aさんも、そのひとりであった。

 Aさんは、某有名企業の元部長だった。早稲田出身で、戦時中は学徒出陣した世代であった。Aさんの左の顔面には、額から眉を断ち切り、まぶたをかすめて頬、顎まで、まっすぐに刻まれた一本の深い傷跡があった。イギリス兵の銃剣で顔面を斬り割られた傷だという。日本の敗色が濃くなった昭和十九年、戦局の一気打開を企図して、ビルマに駐屯していた日本軍3個師団約8万名が、印緬国境の大河チンドウィン川を渡河し、標高2千メートルを超えるアラカン山系の険峻を踏破して、当時イギリス領だったインドに攻め込んだ。インパール作戦である。この人類陸戦史上最も過酷とされる作戦に、Aさんは学徒兵のひとりとして従軍した。人跡未踏のジャングルで繰り広げられた半年に及ぶ激闘の果てに、弾薬糧食の補給が途絶した日本軍は圧倒的物量を誇る英印軍の猛反撃によって壊滅した。Aさんもまた、さんざんな負け戦となって部隊がちりぢりとなり、お互いに名前も知らぬ数人の仲間とともにやっとの思いでジャングルを逃げ回っていたところに、イギリス兵の小部隊と鉢合わせた。すでに弾はない。その瞬間、無意識のうちに雄叫びをあげて銃剣突撃していたという。死を覚悟するとか、恐怖とか、怒りとか、そういうものはいっさいなく、ただ体が勝手に動いた。三八式歩兵銃の銃口の先に取り着けられた銃剣の切先を敵の体に突き刺すことしか考えていなかった。白兵戦の状況はまったく憶えていない。気が付いたら天を仰いで倒れていた。顔が殴られたように痛むので、手を当てた。ぬらぬらとした感触があり、手のひらを見ると、血で真っ赤だった。生き残った仲間のひとりがイギリス兵が捨てていった背嚢をあさって包帯を見つけると、死ぬなよ、死ぬなよ、と言いながらAさんの顔をぐるぐる巻きにしてくれた。その名も知らぬ仲間も撤退する途中で姿が見えなくなった。たぶん途中のどこかで死んだのだろう。日本軍が撤退する山路には日本兵の死体が延々と続いていた。疫病の伝染を恐れた英印軍は、その死体を火炎放射器で焼きながら敗残の日本兵を追撃した。飢餓と伝染病に苦しみながら敗走する日本兵の多くが、弾のない銃をジャングルに捨て、鉄帽を捨て、銃剣を捨て、ただ生きるために飯盒だけを手にぶら下げて、ひたすらビルマをめざしてアラカン山系の難路を再び越えた。インパール作戦に参加した日本軍8万名のうち、ビルマまで生きて帰還できたのはわずか1万名という。Aさんも、敗走に敗走を重ねて、ようやくビルマの首府ラングーンまで逃げ帰ってきたときに終戦となった。

 復員したAさんは早稲田に復学し、卒業後は財閥系の某有名企業に入社した。妻を迎えた。子どもにも恵まれた。仕事も定年まで勤め上げた。が、Aさんのこころはついに満たされなかった。「敗戦後のおれの人生なんて、おまけだよ。おまけ」というのが、Aさんの口癖であった。そうして、Aさんは、「あのとき、弾があればなあ。ほんとにくやしい! 弾がないんだもん、弾が」と言って、顔の傷をひきつらせながら声なく笑った。

 あれから二十年以上が過ぎた。Aさんもすでに、この世にはいないだろう。そうしておそらく彼は、この世から去った瞬間、学徒兵として再びインパールのジャングルにいるだろう。仲間たちとともに、息を殺して草むらに潜んでいる。目の前の小径を、イギリス兵の小隊が自動小銃を構えて歩いてくる。彼は、三八式歩兵銃の照準を、小隊の先頭を歩くイギリス兵の胸に合わせる。「今回」は、弾があるのだ。むろん、彼は、たったいま別れを告げてきた人生のことなど何も憶えてはいない。復員後に結婚した妻の顔も、こよなく愛した子どもたちの名前も、なにも憶えてはいない。インパールのジャングルで弾がなくてくやしい思いをしたこともいっさい、憶えてはいない。けれどもいま、彼は、三八式歩兵銃の照門越しにイギリス兵を見つめながら、こころのどこかで感じているだろう。これが、おれが待っていた時だ!と。そうして、彼は、引き金を引いた。先頭のイギリス兵が倒れる。イギリス兵たちが一斉に展開し、自動小銃を四方八方にめくら撃ちする。彼は、三八式の槓桿を引き、弾丸を装填して再び照準を定める。次は、きょろきょろしているあいつだ、と。そうして、引き金を引いた。三八式の照門の向こうでイギリス兵がまた倒れる。彼はまた槓桿を引く。空薬莢がはじき出されて、次の弾丸が装填される。弾はある。いくらでも弾はある! 皆殺しにしてやる!

 と、その時、ひゅう、と頭上で音がした。目を上げると、敵の迫撃砲弾が落下してくるのが見えた。直撃であった。その瞬間、彼はまた、別の場所にいる。そのときの彼は、何をしているであろう。愛する妻子とともに、笑いながら晩ご飯を食べているであろうか。あるいはまた、三八式歩兵銃を持ってジャングルをさまよっているであろうか。