バナナの選択
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                バナナは、生きるために、子孫繁栄の選択権さえも人類にゆだねたんだ。 一生懸命に生きるって?                 生きる、ということにおいて、僕たちの決意なんて、 バナナの勇気の百分の一にも及ばないよ。         ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

No.170109 愛? 笑わせるなよ。

 先生って、いつも、冷たいよね。と、その女生徒から言われたとき、彼は、愕然とした。彼は、塾講師として、この少女の成績を上げるために、どれほど講義内容を工夫したことだろう。どれほど懇切丁寧に解説してやったことだろう。時給も出ないのに、いったい何時間、自主勉の居残り授業をしてやったことだろう。そうして一年間、彼女の成績は飛躍的に向上し、その日、めでたく志望高に合格したのだ。さっそく塾に来た彼女は、彼の元に走り寄ると、上気した顔で合格したことを報告した。彼はうれしかった。僕の厳しい授業によくついてきた。ほんとうに、よく頑張ったね。良かった。ほんとうに、良かった!と、そう思いながら、「そうか。良かったなあ。」と言った、そのことへの、彼女の返事が、「先生って、いつも、冷たいよね」の一言であった。彼女は、むっとした顔をして彼に背を向けると、他の生徒たちの輪の中に戻って行った。彼の心は、彼女にはまったく伝わらなかった。一年間の彼の熱い思いも、懸命な努力も、彼女には「冷たい先生」という印象しか残してはいなかった。彼は、愕然とした。と同時に、嫌な予感にとらわれた。おれは、いくら頑張っても、結局、冷たい人間として生きることになるのではないか。温かい愛情というものを知らないまま、一生を終えるのではないのか、と。そして、彼の悪い予感は、その後、実現された。

 彼には、恋人がいた。結婚するつもりで、既に一緒に住んでいた。彼は、彼女をこよなく愛していた。彼女からも愛されていると思っていた。彼女には、彼がはじめての男だった。お互いが、お互いに出会うためにこの世に生まれたのだと思った。赤い糸、というものを本気で信じた。それは、同棲して三年が過ぎようとした春の夜であった。彼女が、急に思いつめた顔をして、「あたしを、もっと大事にして」と言った。彼は、息が止まりそうになった。大事にして? 大事にしてだって? 大事にしているじゃないか。これ以上、大事にできないくらい、大事にしているじゃないか!と、心の中で叫びながら、「大事にしてるよ?」と言った。すると、彼女は無表情のまま、ついと立ち上がり、キッチンに行って包丁を手にすると、「うおー!」と叫びながら彼に向って突進して彼の一歩前で立ち止まった。彼は、なすすべなく呆然としていた。目の前で、彼女の握った包丁の刃先が小さく震えていた。すると、彼女は、くるりと背を向けてキッチンに戻り包丁をしまうと、そのまま座り込んで泣き始めた。彼の心は、彼女のどこにも届いてはいなかった。それから間もなく、彼女は、別の男の元に去った。ずっと以前から、彼女は、その男とつきあっていた。そもそも彼女は、彼がはじめての男ではなかった。別れ際の捨て台詞で、彼女は彼にすべてを話した。彼女にとって、彼は、いく人もの男のうちの一人に過ぎなかった。赤い糸など、どこにもなかった。おめでたい奴、という自虐の笑いが、吐き気とともにこみ上げてきた。あの時、あのまま刺してくれればよかったのに、と彼は思った。

 数年後、彼は、職場で出会った女性と結婚していた。べつに愛情もない。赤い糸もなにもない。そういう甘く温かい幻想はいっさい、持たなくなっていた。職場で出会って、交際して、なりゆきで結婚した。それだけであった。山野のけものと同じであった。たまたま森で出会った雄と雌とが巣をつくったに過ぎない。けものしかいない世界で、ひとりだけ人間の愛を求めても虚しいだけだ。発狂して死ぬしかあるまい。生きていけぬ。生きようとするのであれば、自分も、けものになるしかない。ひとの心を捨てて、本能の衝動のままに山野をうろつくだけの汚らわしく醜いけものに身を落とすしかないではないか。それが、彼が見つけた唯一の生きる知恵であった。彼は、人間であることをやめた。ひとの愛を求めることをやめた。かつて彼の心の中にあった熱い思いは燃え尽きて、心は冷たく凍りついた。

 彼は、かつて女生徒に「冷たい」と言われたとおりの人間になった。いや、もしかしたら、その当時から彼は、無意識のうちに、冷たい人間になろうとしていたのかも知れない。そうしなければ、愛を裏切られたときに耐えられないから。彼は、彼の求める愛など、この世に存在しないことを、はじめから知っていたのだ。赤い糸を見つけたと喜び、真実の愛を手にしたつもりでいても、それが、どうせいつかは裏切られることを知っていたのだ。せっかく見つけた愛が裏切られることにおびえながら、裏切られるその時にそなえて、冷たい人間の仮面をつけ、それを鎧として身を守っていたのだ。女生徒は、その仮面を見て、そのとおりのことを素直に話したに過ぎない。包丁で彼を刺そうとした彼女は、彼を刺そうとしていたのではなく、彼の冷たい仮面を切り裂こうとしていたのではないのか。そうだ。彼は、むかしから、冷たかったのだ。身を守るために冷たい人間の仮面をつけてきた。冷たい仮面を通してしか、自分の心の中の愛を伝えることはできなかった。そうして、彼は、いまや、仮面だけではなく、心まで冷たく凍てついてしまった。純粋、純潔、純愛、無償の愛・・・そういった、美しい言葉に触れるたびに、彼は思うのだ。純粋? 愛? 笑わせるなよ。どこにそんなものがある。どいつもこいつも、きたならしい生き物にすぎない。おまえらが、愛を語るな!と。むろん、彼もまた、そのきたならしい生き物の一匹に過ぎない。けれども、この一匹の醜悪な生き物は、ときどき、かつて心の中で燃えていた熱い炎の記憶に苦しんで咆哮するのだ。醜いけものとして生きるよりは、純粋な愛の炎に焼き尽くされて死にたい、と。