バナナの選択
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                バナナは、生きるために、子孫繁栄の選択権さえも人類にゆだねたんだ。 一生懸命に生きるって?                 生きる、ということにおいて、僕たちの決意なんて、 バナナの勇気の百分の一にも及ばないよ。         ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

No.160730 なんじ、なすべきことをなせ

 あんたね、何のために生きてんの? と、人から問われ、あるいは自らに問うてみたことのない人なんて、たぶん、いないだろう。いたとすれば、そのひとは、きっと、永遠の無意味、永劫回帰の無限奈落にも耐えうる超人級のつわものであろう。ところが残念ながら煩悩におぼれる平凡人に過ぎぬ僕などは、もう毎日といってよいほど、いや、数分おきにといっても過言でないほど、ああ、僕は、何のために生きているのだろう、と懊悩輾転するのである。

 生きていることの意味が、ほしい、ではないか。ただ生きていれば良い? そうはいかぬ。食って寝て、人生80年としておよそ3万日を無為に浪費して死ねるか。ひととしてこの世に生を受けたからには、ひととして世のため人のため役に立って死にたいと思うのが人情じゃないか。この世に生をうけて立派に生きたという「しるし」をこの世に残して、にっこり笑って来世に去りたいではないか。僕にできることはないのか。僕は何のために生きているのか。 天が僕に与えた天命とは何ぞや!

 と、ずいぶん頑張って叫んでみても、そこは例によって「神の沈黙」というやつで、天命が何かなんて、誰にも、さっぱりわからんのである。むかしから五十知命とか言うけれど、世の五十おやじどもの、いったいどれだけがおのれの天命を知っているであろう。知るわけがない。断言できる。残業帰りにビール飲んで、ああ、このために生きてんなあ、おれ、と悲哀とともに実感するのがせいぜいである。などと、つらつら考えながら風呂上がりにコーラを飲んでいて(だって風呂上りはビールよりコーラの方がおいしいんだよね)、僕は、ふと思ったんだ。ていうか、それが、おれの天命なんじゃねえの? と。

 天命というから、何だか、世のため人のため、人類の進歩のため、はたまた歴史の先駆者、維新回天の立役者、みたいな立派な役割を期待しているが、そうは限らぬ。ビール飲んで、ああ、うまい! と言うだけの天命も、あるかも知れないじゃないか。実に、つまらない天命だ。けれども、たいていの人の天命なんて、そんなものに違いないのである。神さまだって、そんなにたくさんの立派な天命はつくれないだろう。立派な天命は、ごくごく限られた人々にのみ賦与されるわけで、だからこそ、そういう人々は、歴史に名を残すこともできるわけで、そういう人々こそ本当の意味のエリートなのである。で、べつにエリートなんかとは縁もゆかりもないわれわれ凡夫は、残業後にビール飲んで、うまい!とうなるだけの天命とか、熱々のラーメンを5分で食べ切る天命とか、一分以内に一円玉を百枚積み重ねることができる天命とか、そういうどうでもいい行為を日々遂行することを天命として天から賦与されており、そうして、まさかそれが自分の天命とは思いもせずに、そのどうでもいい行為を実直に日々遂行しているのではないかという疑いがおおいにあるのだ。だとすると、わが天命は何ぞや!などと問うことはまことに無意味な愚問であって、そんなことを問うまでもなく、すでに僕は、天から賦与された天命を無意識のうちに遂行していたことになる。

 そんな天命をつまらないと思うか、どうか。「なんじ、なすべきことをなせ。」とは、キリストが裏切者ユダに与えた言葉だ。この言葉を聞いたユダは、イエスを売るために祭司長のもとへ走った。なんじ、なすべきことをなせ。ひとりひとりに、神は、天命を賦与している。天命を持たずしてこの世に生を受けた者などない。なぜなら、そうでなければ、実体もなき混沌の闇の中に、この世を創る「ことば」をもってわざわざ生まれてきた理由がなくなるから。いのちの理由。生きる理由。それを説明しようとすれば、「なんじ、なすべきことをなせ。」これに尽きる。そうして、そのなすべきことが、何なのか、それは、おのれのほかに誰も知らぬ。日々、なすべきことを、なせばよい。