バナナの選択
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                バナナは、生きるために、子孫繁栄の選択権さえも人類にゆだねたんだ。 一生懸命に生きるって?                 生きる、ということにおいて、僕たちの決意なんて、 バナナの勇気の百分の一にも及ばないよ。         ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

No.160604 ユーコちゃん

 むかし、職場の近くのスナックに、ユーコちゃんというアルバイトの女の子が新しく入った。ユーコちゃんはその町のはずれにある小さな私立大学の学生で、学校帰りにジーパンにTシャツでお店に通ってくる姿は、ママの親戚の中学生が遊びに来たのかと思うくらいに幼く見えるが、チーママが貸してくれるおしゃれな服に着替えてカウンターに出てくると、ちょっと意外なほど綺麗に変身して大人ぶっている。僕は、ユーコちゃんを気に入った。いや、そんなもんじゃない。ベタぼれしたのである。僕は、ユーコちゃんに会うために、スナックに毎週かよった。ユーコちゃんのつくってくれる、いつもちょっと濃すぎる水割りを飲みながら、僕が、ユーコちゃんに文学論なんかを得意になって話して、それも酔っぱらって適当に話しているだけで、ほとんどデタラメな内容なのだけれど、それをユーコちゃんが、へえ、そうなんだ、ふうん、などと相づちを打ちながら聞いてくれるという、ただそれだけの時間だったのだけれど、それがもう僕には幸せな時間で、うれしくて、何がうれしいのか良くわからなかったけれど、今でも良くはわからないけれど、とにかく、うれしくて、何というか、自由、というか、平和、というか、とにかくそういう言葉で表したくなるような良い気分になって、お店が混んでいない時にはユーコちゃんを独占できるからなおさら調子に乗って、閉店時間の夜中の三時まで話し込むのが常で、そういう時の僕はもはや泥酔状態で半分眠りながら意味不明の言葉を繰り返しているだけになっているのだけれども、飽きもせず僕の相手をしてくれて、そうして、三時になったらタクシーを呼んで僕を車に押し込んで、じゃ、またね、と言って笑う。

 それから一年ほどが過ぎて、ユーコちゃんも就職活動の時期になった。就職難の時代だから、ユーコちゃんも苦労しているのだろう思って、僕は、ユーコちゃんを励ますつもりで、「ユーコちゃん、僕は、ユーコちゃんは、アナウンサーのような職業をめざすべきだと思う。君の、ひとを元気にする明るさと話術の巧みさは、ただ者ではない。まちがいなく君は、たくさんの人々を楽しませるような仕事が向いている」と、正直に真面目に言った。すると、ユーコちゃんは、ちょっと驚いた顔をして、実は大学とは別に、アナウンサーの養成学校に通っていることを明かしてくれた。そうだろう、そうだろうとも、と僕はうれしくなった。僕の目に狂いはなかった。この子は、自分の才能をちゃんとわかっているんだ。そして、その才能どおりの夢を描いているんだ。きっとうまくいく。うまくいくとも!

 ユーコちゃんは、各テレビ局のアナウンサー採用試験にことごとく失敗した。競争率は一千倍を超えるというから、片田舎の無名の小さな大学の学生に過ぎないユーコちゃんにとっては、さすがに狭き門だったのだろう。けれども、ユーコちゃんはあきらめなかった。テレビ局がだめでもラジオ局があると言って、いくつかのラジオ局のアナウンサー採用試験に挑戦して、ようやく地方ラジオ局のアナウンサーに合格したという。あたしね、ラジオのアナウンサーになれるみたい、とユーコちゃんがこっそり教えてくれた。僕は、そりゃあ、良かった、良かったと喜んだ。そして、その夏、ユーコちゃんは、スナックのアルバイトを辞めた。しばらくユーコちゃんの姿を見なかったのでチーママに尋ねると、あら、知らなかったの、あの子、辞めたのよ、急だったけど、と教えてくれた。

 それきりユーコちゃんには会っていない。ユーコちゃんのラジオも聞いたことはない。あれからもう十年になる。ユーコちゃんは、僕のことなどはもう覚えてはいまい。そういう僕も、ユーコちゃんという名前は憶えていても、ユーコちゃんの顔はおぼろげにしか憶えていない。道で顔をあわせても、もはやお互いに誰かわからない。もう二度と戻らない記憶。永遠の他人。そのうち僕の脳裏のおぼろげな記憶さえもきれいさっぱりと消え去って、僕の中からユーコちゃんという存在自体が消え去るだろう。そのひとの記憶がどんどん薄れていくことに、なす術もない。そのひとのことを忘れるということは、そのひとが僕の中で死ぬということだ。ユーコちゃんは、いま、僕の中で死のうとしている。瀕死の彼女を救う術はない。けれども、それでいいのだ。彼女を忘却の淵から救い出してはいけない。ひととの別れは、忘れるまでは悲しいけれど、忘れてしまえば何も感じない。彼女が僕の中で死んだ後、僕は、道で彼女と会っても、まったくの他人として一瞥もくれることなく目的地に急ぐであろう。それは、無数の別れに満ちた人生にとって幸せなことだ。