バナナの選択
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                バナナは、生きるために、子孫繁栄の選択権さえも人類にゆだねたんだ。 一生懸命に生きるって?                 生きる、ということにおいて、僕たちの決意なんて、 バナナの勇気の百分の一にも及ばないよ。         ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

No.160507 愛の定義 いのちの定義

 愛といのちと存在と、この三つのことは、たぶん、同じことを言っているのだと僕は思うんだ。

 愛の定義って、何だろう。ある人はこう言う。それは、生物の種の保存のための先天的衝動に過ぎない、と。でも、それなら、ペットの犬猫への飼い主の愛情は、あれは、愛ではないのだろうか? サボテンに独り言をつぶやくことは、愛情の表現ではあり得ないのだろうか? またある人は言う。愛とは、神の恵みを分け与えるやさしさのことなのだよ、と。でも、神の恵みを感じるどころか、自らの運命を呪い、神に反逆している悪魔のような人にだって、愛する人はきっといるだろう。

 愛って、もっと、一方的で、わがままで、そうして激しいものなんじゃないか。誰かを愛するというとき、それは、その対象を、いつまでもいつまでも抱きしめていたいということなんじゃないか。恋人が恋人を思うように。母がわが子を思うように。永遠に、この手でしっかりと、つかんでおきたいということなんじゃないか。この手から離したくないんだ。失いたくないんだ。消えないでほしいんだ。このままずっと、この目の前に、この手の中にいてほしいんだ。たとえ死んでも、骨になっても、それでも、消えてほしくない、幽霊でもいいから会いたい、声を聴きたい、抱きしめたい! 愛するということは、そういうことなんじゃないのか。

 いのちの定義って、何ですか。ある人は言う。それは、細胞の代謝システムのことさ、と。でも、 それなら、いのちは、有機的な化学反応のことになるのだろうか? 試験管の中で、同じような化学反応を起こせば、それは、いのち、ということになるんだろうか? またある人は言う。いのちとは、魂のことだよ、と。でも、魂って何ですか? どこにあるの? 心臓にあるのか、それとも脳みその中にあるのか? デカルトは、魂を探し求めて死体の脳みそをほじくりかえしたけれど、結局、見つけられなかった。魂がこの世にないというなら、いのちもこの世にはないというのか?

 いのちって、そういうものじゃないんじゃないか。自ら彫刻した石像ガラテアに恋したピグマリオンにとって、ガラテアはまさに、生きていたんじゃないのか。ほら、あそこの、小さな女の子、あの女の子が大切そうに抱いているお人形は、所詮、布切れに綿を詰め込んだだけの物質にすぎないのだろうか? けれども、女の子に、この人形にはいのちなんかないのだよ、と言ったら、女の子はきっと泣くだろう。だって、あの女の子は、毎日、お人形とお話をしているんだから。そう。いのちは、さあ、これがいのちですって、手に取れるものじゃないんだ。いのちの実体なんかないんだ。そうではなくて、いのちは、その対象を大切にしている人が、その対象にずっと自分のそばにいてほしいと思う願いのことだ。その願いで、対象にいのちが宿るんだ。ピグマリオンのガラテアへの願い、女の子のお人形への願い、それが、ガラテアにいのちを吹き込み、お人形にお話をさせるんだ。

 世界が、僕の認識のつくった幻だとして(たぶん、そうなのだけれど)、このあまりにも不確定な世界の中で、いつ消滅してもおかしくない確率的存在でしかない世界の中で、誰かを愛するということは、それは、その人の確かな存在を信じていたいということだ。消えないでほしい。その人が、僕のつくった幻なんかでいてほしくない。そういう願いが、愛じゃないのか。そうして、そういう願いがあれば、それが石であっても、人形であっても、たとえ幻であっても、いのちが宿る。いのちとは、愛されているということの同義語だ。愛がいのちを生み、幻を存在に変える。そうして、愛といのちと存在と、その三つがひとつになったとき、僕だけが存在する無明無音の孤独な世界は、豊かな色彩と音楽をともなう客観的存在となって僕の前に現れるんだ。