バナナの選択
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                バナナは、生きるために、子孫繁栄の選択権さえも人類にゆだねたんだ。 一生懸命に生きるって?                 生きる、ということにおいて、僕たちの決意なんて、 バナナの勇気の百分の一にも及ばないよ。         ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

No. 170218 その愛は10%未満

 その夜、仕事で実につまらないことがあって、いらいらして、何のためにこんな仕事をやっているんだか、何のためにいろんなことで気をつかっているんだか、何もかもがバカバカしく、ああ、つまんねえ世界だ、バカしかいねえ、おまえらのことだ、バカどもが、と、止めどなく怒りが湧いて、くやしくて、かなしくて、さびしくて、泣きたくなって、叫びたくなって、会社から地下鉄までの途中、合コン帰りか何かの酔っ払った若い男女の群れが歩道をふさいでゲラゲラ笑いながらバカ面してふらふら歩いていたから、この低能ども全員を死ぬほど殴ってやろうかという目まいがするほどの強烈な衝動にかられて、それでもどうにかその凶暴な衝動を我慢して地下鉄に乗って、イヤホンの音量全開で耳をふさぎ、ニット帽を深くかぶり、マスクで顔をおおって目を固く閉じ、いまいましいだけのバカしかいない世界を完全拒否して自分だけの空間に閉じこもり、地下鉄のゴトゴトという線路の響きだけを感じながらいつもの駅に帰り着き、地上に出て、やっぱり無理だ、飲まなきゃやってられねえ、記憶がなくなるほど飲んでぜんぶ忘れなきゃ、とてもじゃないが、このまま家には帰れねえ、と、まだボトルが残っているはずのスナックに寄って、そのドアを開けた。

 あら。いらっしゃい。久しぶりじゃん。〇〇ちゃん(僕の名)。と、カウンターのチーママが愛想よく笑った。僕は、ほっとして笑う。少なくともこの店の女たちは、いくばくかのお金を払いさえすれば、僕に不愉快な思いをさせることはないから。僕がカウンターに座ると、いらっしゃい。と言いながら見慣れない女の子がとなりに座って、水割りをつくってくれた。その子は、はい。どうぞ。と水割りを僕の前に置いて、さくらです。よろしくおねがいします。と言った。ああ。さくらちゃんね。はじめてだね。ええと。君。かわいいね。と僕がふざけると、チーママが、さくらちゃん、〇〇ちゃんはわるいひとだから、気をつけなさいよ、と言って笑った。さくらは、はい。気をつけます。と、まじめな顔で答えた。気をつけられちゃ困るんだけど、と僕は笑いながら、水割りをぐいぐい飲んだ。さくらのつくる水割りを、何杯も何杯も飲む。がぶがぶ飲む。アルコールが体中をめぐって心臓が高鳴り、暴走していた脳神経が麻痺していく。僕を不眠症に苦しませるとげとげした意識が鈍磨していく。世界が朦朧となっていく。ああ。救われる。と思う。バカどもで充満した世界の重みに押しつぶされていた僕のたましいが、ようやく息をふきかえす。ボトルがなくなる。新しいボトルをキープして、さらに飲む。ろれつが回らなくなって、目もまともに開いていない。それくらいまで酔った状態が、ちょうど良い気分だ。さくら。こら。さくら。君は、かわいいぞ。うん。僕がかわいいと言ってるんだから、かわいいんだ。などと、そんなくだらない会話を繰り返している状態が、ちょうど良い気分なのだ。そういう良い気分のときに、さくらが、おもしろいことを言った。〇〇さん。愛ってさ。愛って、100%じゃないと、ダメだよね。と。

 ん?と、僕は思わず酔っぱらった目を開いて、さくらの顔を見た。愛が100%?なにを言ってる。さくら。もっとくわしく、おれに話せ。僕がそう言うと、さくらは、ちょっと恥ずかしそうな顔で話し始めた。

 ほら。例えばさ、あたしにさ、誰か好きなひとができて、もう3年くらいつきあってるとするじゃん。でもさ、そのひとには、あたしと出会う前にも彼女がいたとするでしょ。そうしたらさ、あたし、その彼女とつきあっているときの彼までは愛せないじゃない。だって、嫌だもん。あたしの知らない女とつきあって幸せだった頃の彼のことなんて、どうでもいい。知りたくない。だから、彼から、その彼女とつきあってた期間は捨てなきゃいけない。でも、彼の彼女はその子だけじゃないかも知れない。何人もいたかも知れない。そうしたらさ、彼から捨てなきゃいけない期間が、どんどん増えちゃうわけ。で、結局、あたしが好きな彼は、彼が誰ともつきあっていなかった子どものころの彼と、あたしとつきあうようになってからの3年間だけってことになるでしょ。それって、年数で言ったら、合計でたぶん15年くらいじゃない。彼が30歳だとしたら、二分の一。50%だよ。あたしがさ、彼のことぜんぶ愛してるって言っても、ほんとうは彼の半分しか愛してないんだよ。それに、あたし、子どものころの彼なんて、何にも知らないんだから、子どもの頃の彼を含めたらダメだと思うし。そしたらさ、結局、あたしが愛してる彼は、ほんとうは、彼とあたしがつきあい始めてからの3年くらいの彼だけってわけ。それって、彼の10%だよね。しかもだよ。その3年だってさ、あたしがぜんぶ知ってるわけじゃないじゃん。あたしが知ってるのは、あたしと一緒にいるときの彼だけなんだから。仕事しているときの彼とか、ほかの友だちと遊んでいるときの彼とか知らないわけだし。そしたら、結局、あたしが愛してる彼って、彼の3%くらいじゃん。10%もないんだよ。それって、愛って言える?ね。〇〇さん。どう思う?それって、愛って言える?〇〇さんは頭良いんでしょ?東大出たんでしょ?どうなの?教えてよ。教えて!

 さくらはまじめな顔で僕を見つめていた。さくら。好きなひとがいるのか。と僕は言った。さくらは、恥ずかしそうに、うん、とうなずいた。そうか。おまえは良い子だな。彼氏を、ぜんぶ、愛したいのか。彼氏を100%愛したいのか。さくらはまた、うなずいた。そうして言った。でも、無理。だって、この前まで、一緒に住んでた彼女がいるんだもん。いやな女。最低な女。ぜったい、ゆるせない。あんな女と愛し合ってた彼は、やっぱり愛せない。だから、無理。あたしは、あのひとを、100%愛したい。100%愛せないなら、そんなの愛じゃないと思う。彼が生まれてからあたしと出会うまで、彼のぜんぶを愛せないなら、もう、いい。僕が言った。もう、いいって、なんだ、あきらめるのか?さくらは、だって、くやしいもん。と言って、泣きそうな顔でうつむいた。くるしいか。と僕が言った。くるしい!と、さくらが小さな声で、けれど激しく言った。僕はもう酔ってはいなかった。さくらが空になった僕のグラスにまた水割りをつくり始めた。僕は、さくらの横顔を見つめながら、つくづく、良い子だと思った。その少女のような幼さの残る薄紅の頬に、気高い女としてのプライドを感じた。さくらが、その白くて細いのどからしぼりだした、くるしい!という言葉の激しさが、どんな愛の言葉よりも美しかった。この子は、きっと幸せになるだろう。この子が幸せになれないとすれば、この世界にいったい何の意味があるだろう。僕は、さくらの幸せを、神に祈った。真剣に、祈った。

No. 170213 光るもの。

うすぼんやりと光るものが、僕の前に現れて、僕にたずねた。

あら。あなた。ずいぶん、くるしそうじゃないの。

なんで、いっそのこと、死なないのよ。

そんなにくるしいのなら、死ねばいいじゃない。と。

僕は答えた。

まだ、死ねないのです。

何かが、僕を待っているような気がするのです。

光るものは言った。

何も待ってやしないわ。

もう、何もないのよ。あなたには、何もない。わかってるでしょ。

僕は答えた。

いや。何かが、あるんです。僕を待っている何かが、どこかにあるんです。

それが何なのか、僕にはぜんぜん、わからないんだけれども。

光るものが言った。

バカね。それを、希望というのよ。

僕は驚いて言った。

希望? 希望だって? こんな世界に、希望だって?

光るものは言った。

そう。希望よ。あなたは、希望をもっているのよ。

希望をもっている者は、死ねない。

たましいが、死をゆるさないから。

死は、絶望した者だけがゆるされるの。

僕は、光るものにたずねた。

僕は絶望していないのかい?

光るものが言った。

そう。絶望していないから、死ねないのよ。

あなたがほんとうに絶望しているのなら、いますぐ死ねるはず。

あなたは、いますぐ死ねるの?

僕は正直に答えた。

死ねない。まだ、死ねないんだ。どうしてだろう。こんなにくるしいのに。

光るものは、微笑んで言った。

くるしいのは、あなたがまだ希望をもっているから。

あなたがくるしいことが、あなたが希望を捨てていない証拠なの。

絶望したら、くるしみもない。ただ消えたいと願うだけ。

そのときには、あたしがまた、むかえに来るわよ。

そうして、闇の中を漂うあなたのたましいをつかまえてあげる。

僕は不思議になって、光るものにたずねた。

君は、いったい誰?

光るものは、また微笑んで言った。

あなたは、あたしを知ってるはずよ。

振り返ってごらんなさい。そこにあたしはいる。と。

 

 

 

No.170212 さらば去れ。我を苦しめるもの。

 ふと目が覚めると、僕は、タオルケットをお腹にかけて、自分の四畳半の勉強部屋で寝転がっていた。夏休みのある日の夕刻だ。窓から橙色の夕陽がさしこんでいる。僕が生まれたころから使っている古ぼけた扇風機がカタカタと鳴りながら風を送っている。台所から、母親が夕飯を支度している音がする。僕が幸せだった日。小学校六年生の僕は、人生の心配ごとなど何もなく、ただ毎日、学校の勉強をして、クラスの好きな女の子とちょっとだけ話をして顔を赤くして、シャーロック・ホームズを読んでわくわくして、テストで100点をとって母親にほめられて、学校からの帰り道には田んぼの用水路に笹舟を浮かべて遊んで、その用水路沿いの道端に生えている野いちごを食べて酸っぱくて吐き出したりして、同級生たちと近所のどぶ川に発泡スチロールでつくったいかだを浮かべてひっくり返ってずぶ濡れになって、そして夏休みには宿題などほったらかしで市営プールであそび疲れて、家に帰って勉強部屋で寝転がって昼寝をして、そうして、いま目が覚めた。

 ずいぶん、へんな夢を見ていた。おとなになった僕の夢。おとなになった僕は、いろいろと嫌な目にあって、ひとのことが信じられなくなって、家族も、友人も、恋人も、この世のひとたち、ぜんぶが信じられなくなって、ひどく寂しい人間になっていた。おとなになった僕は、ぜんぜん、幸せでなかった。おとなになったら幸せになると思っていたけど、ぜんぜん、そうではなかった。嘘だと思った。こんなはずがないと思った。そうして、いま、目が覚めた。ぜんぶ、夢だった。悪い夢だった。いやな夢だった。でも、ただの夢だった。良かった。あ。もう夕方か。プールから帰ってきて寝ちゃったんだな。このタオルは、ああそうか、お母さんがかけてくれたのか。今日の宿題やってないな。今日は、ええと、そう、まだ夏休みは半分以上残ってる。宿題なんか、べつにいいや。

 と。そこで、僕は、目が覚めた。見慣れた部屋の天井が見える。おとなの僕。この部屋から一歩出れば、いっさい関わりたくない世界が広がっている。いっさい関わりたくないひとたちであふれている僕の世界。僕を苦しめるだけの世界。なにひとつとして、僕を安心させることのない世界。これが僕の現実の世界。それじゃ、さっきの小学生の僕は何なんだ。この僕は、こんな世界は、こどもの頃の僕の悪い夢なんだ。夢からさめてくれ。小学生の僕にもどってくれ。夕陽のさしこむ夏休みの勉強部屋にもどってくれ!

 けれども僕は夢からさめないでいる。いや、夢なのだ。夢にすぎないんだ。そもそも夢と現実の区別なんてない。いまの僕は、こどもの頃の僕の夢でしかない。こどもの頃の僕も、いまの僕の夢でしかない。僕は、夢と夢の間を行ったり来たりしているだけだ。その時その時の僕を、僕の現実と思っているだけだ。世界など、架空の存在にすぎない。すべて僕の認識が創ったフィクションではないか。僕を苦しめる彼ら彼女らの酒に酔ってだらしなくゆがんだ下品な笑い顔も、所詮、幻影にすぎない。僕の頭の中で響き渡って僕を不眠症にする彼ら彼女らの低劣なゲラゲラ笑いも、所詮、幻聴にすぎない。幻影なら見なければいい。幻聴なら聞かなければいい。目を閉じ、耳をふさげ。見たいものだけを見て、聞きたいことだけを聞けばいい。そうすれば僕を苦しめる世界は消える。さっさと消えるがいい。この浅はかで忌まわしい世界。去れ。汚らわしく醜いけものども。おまえたちのその濁った目で神を仰ぐな。その生臭い息で愛を語るな。僕の知らない遠いところで、いつまでも好き放題に、けものとしての欲望を満たしてゲラゲラ笑ってろ。おまえたちのことなど、僕の知ったことではない。おまえたちなど、そもそも存在しない。この世界も、所詮、僕の束の間の夢に過ぎない。僕は、この悪夢から何度でも目覚めて、あの夕陽のさしこむ勉強部屋へと永遠に回帰する。

No.170211 ある兵士の記録

 僕はむかし、大学生のころ、ある大手の進学塾で非常勤講師のアルバイトをしていて、そこには、僕のような大学生の非常勤講師のほかにも、元中学校の校長先生だったとか、なんとか会社の元部長だったとか、いわば定年後の年金の足しにするために非常勤講師をやっているひとたちも何人かいて、授業のコマの空き時間などには、そういう年配のひとたちと雑談することも多かった。Aさんも、そのひとりであった。

 Aさんは、某有名企業の元部長だった。早稲田出身で、戦時中は学徒出陣した世代であった。Aさんの左の顔面には、額から眉を断ち切り、まぶたをかすめて頬、顎まで、まっすぐに刻まれた一本の深い傷跡があった。イギリス兵の銃剣で顔面を斬り割られた傷だという。日本の敗色が濃くなった昭和十九年、戦局の一気打開を企図して、ビルマに駐屯していた日本軍3個師団約8万名が、印緬国境の大河チンドウィン川を渡河し、標高2千メートルを超えるアラカン山系の険峻を踏破して、当時イギリス領だったインドに攻め込んだ。インパール作戦である。この人類陸戦史上最も過酷とされる作戦に、Aさんは学徒兵のひとりとして従軍した。人跡未踏のジャングルで繰り広げられた半年に及ぶ激闘の果てに、弾薬糧食の補給が途絶した日本軍は圧倒的物量を誇る英印軍の猛反撃によって壊滅した。Aさんもまた、さんざんな負け戦となって部隊がちりぢりとなり、お互いに名前も知らぬ数人の仲間とともにやっとの思いでジャングルを逃げ回っていたところに、イギリス兵の小部隊と鉢合わせた。すでに弾はない。その瞬間、無意識のうちに雄叫びをあげて銃剣突撃していたという。死を覚悟するとか、恐怖とか、怒りとか、そういうものはいっさいなく、ただ体が勝手に動いた。三八式歩兵銃の銃口の先に取り着けられた銃剣の切先を敵の体に突き刺すことしか考えていなかった。白兵戦の状況はまったく憶えていない。気が付いたら天を仰いで倒れていた。顔が殴られたように痛むので、手を当てた。ぬらぬらとした感触があり、手のひらを見ると、血で真っ赤だった。生き残った仲間のひとりがイギリス兵が捨てていった背嚢をあさって包帯を見つけると、死ぬなよ、死ぬなよ、と言いながらAさんの顔をぐるぐる巻きにしてくれた。その名も知らぬ仲間も撤退する途中で姿が見えなくなった。たぶん途中のどこかで死んだのだろう。日本軍が撤退する山路には日本兵の死体が延々と続いていた。疫病の伝染を恐れた英印軍は、その死体を火炎放射器で焼きながら敗残の日本兵を追撃した。飢餓と伝染病に苦しみながら敗走する日本兵の多くが、弾のない銃をジャングルに捨て、鉄帽を捨て、銃剣を捨て、ただ生きるために飯盒だけを手にぶら下げて、ひたすらビルマをめざしてアラカン山系の難路を再び越えた。インパール作戦に参加した日本軍8万名のうち、ビルマまで生きて帰還できたのはわずか1万名という。Aさんも、敗走に敗走を重ねて、ようやくビルマの首府ラングーンまで逃げ帰ってきたときに終戦となった。

 復員したAさんは早稲田に復学し、卒業後は財閥系の某有名企業に入社した。妻を迎えた。子どもにも恵まれた。仕事も定年まで勤め上げた。が、Aさんのこころはついに満たされなかった。「敗戦後のおれの人生なんて、おまけだよ。おまけ」というのが、Aさんの口癖であった。そうして、Aさんは、「あのとき、弾があればなあ。ほんとにくやしい! 弾がないんだもん、弾が」と言って、顔の傷をひきつらせながら声なく笑った。

 あれから二十年以上が過ぎた。Aさんもすでに、この世にはいないだろう。そうしておそらく彼は、この世から去った瞬間、学徒兵として再びインパールのジャングルにいるだろう。仲間たちとともに、息を殺して草むらに潜んでいる。目の前の小径を、イギリス兵の小隊が自動小銃を構えて歩いてくる。彼は、三八式歩兵銃の照準を、小隊の先頭を歩くイギリス兵の胸に合わせる。「今回」は、弾があるのだ。むろん、彼は、たったいま別れを告げてきた人生のことなど何も憶えてはいない。復員後に結婚した妻の顔も、こよなく愛した子どもたちの名前も、なにも憶えてはいない。インパールのジャングルで弾がなくてくやしい思いをしたこともいっさい、憶えてはいない。けれどもいま、彼は、三八式歩兵銃の照門越しにイギリス兵を見つめながら、こころのどこかで感じているだろう。これが、おれが待っていた時だ!と。そうして、彼は、引き金を引いた。先頭のイギリス兵が倒れる。イギリス兵たちが一斉に展開し、自動小銃を四方八方にめくら撃ちする。彼は、三八式の槓桿を引き、弾丸を装填して再び照準を定める。次は、きょろきょろしているあいつだ、と。そうして、引き金を引いた。三八式の照門の向こうでイギリス兵がまた倒れる。彼はまた槓桿を引く。空薬莢がはじき出されて、次の弾丸が装填される。弾はある。いくらでも弾はある! 皆殺しにしてやる!

 と、その時、ひゅう、と頭上で音がした。目を上げると、敵の迫撃砲弾が落下してくるのが見えた。直撃であった。その瞬間、彼はまた、別の場所にいる。そのときの彼は、何をしているであろう。愛する妻子とともに、笑いながら晩ご飯を食べているであろうか。あるいはまた、三八式歩兵銃を持ってジャングルをさまよっているであろうか。

 

No. 170206 清左衛門の嘘

 青島清左衛門は、伊東三位入道義祐の侍大将で、三位入道の日向国制覇を支えた武功第一のさむらいであった。が、天正四年、九州統一をめざして猛進する薩摩島津軍による熾烈な反撃がはじまる。その日本最強を謳われる島津兵三万を率いるのは後年、徳川家康をして「大将の鑑」とまで言わしめた島津義久。古今無双の名将の指揮で怒涛のごとく押し寄せる剽悍無比な薩兵の猛攻撃を受けて、さすがの伊東勢も次々と国内支城を失って壊乱し、清左衛門もまた無念の思いで敗走を重ねた。世にいう「伊東崩れ」である。翌天正五年冬、陥落した支城から逃げ集ってきた一族郎党の籠る佐土原の本城もすでに数万の薩兵にひしひしと包囲され、いよいよ進退窮まった三位入道は一時は自害も考えたほどであったが、家来どもの必死の諫言に思い直して何とか家名を残す道はないかと評定を重ね、ついに日向国を捨てて豊後の大友宗麟を頼って落ち延びることに決した。が、問題は、その経路である。三位入道の首を血眼で追う島津兵の追撃を避けつつ豊後府内にたどり着くためには、米良、高千穂を経て豊後大野に至る九州山脈の峩々たる山剣を踏破しなければならない。しかも時季は厳冬。山中の積雪は身の丈に迫り、連日の猛吹雪である。たとえ薩兵の追撃を免れたとしても、とても無事ではすまぬ。中でも三位入道を心痛させたのは、末娘の小松。このとき十五。日向国主の姫として玉のように大切に育てられたこの娘が、風雪のみならず矢弾の飛びすさぶ酷烈な逃避行で無事でいられるとは到底思えぬ。いずれ薩兵の虜となって辱めを受けるくらいであれば、いっそ我が手でそのいのちを、と思いつめては悪夢を打ち消した。そういう三位入道の苦悩を見て取った清左衛門は、三位入道の前に平伏して願い出た。この清左衛門に、小松の姫様をお預けくだされ。きっと姫様を、豊後府内に送り届けてみせます、と。

 三位入道は、清左衛門の願いを聞き届けた。広間に現れた小松は可憐な声で、「清左、たのむぞ」といった。清左衛門は、いのちにかえましても、と答えて平伏した。

 清左衛門と小松とは、薩兵が攻撃目標とする三位入道の本隊とは離れ、別動隊として行動することにした。清左衛門は、野良着の背に大刀を背負い、蓑笠を身に着けた。小松も百姓娘の恰好をさせられた。が、さすがに人品は争えぬ。いくら百姓娘の恰好をしたところで、香るような気高さは消せない。清左衛門は、小松に懐剣を渡すと、お覚悟のときは、この清左が介錯仕る、と言った。小松は深くうなづいた。

 その日未明、三位入道率いる本隊が突貫して薩陣の包囲環をわずかに突き破り、そのわずかな隙間から一族郎党総勢およそ三百人が脱出すると、薩兵の追撃を払いつつ猛吹雪の九州山脈へと分け入った。清左衛門と小松もまた、近在の百姓に身をやつして薩兵をやりすごしつつ人跡絶えた雪中へと踏み込んだ。積雪は深く、腿から腰、そしてついに胸まで沈んだ。清左衛門は、小松と自分とを縄でつなぐと、自らの分厚い胸板で雪を押しのけつつ小松の道を拓いていった。小松は清左衛門と自分とをつなぐ縄を握りしめ、一歩も遅れまいと懸命に歩いた。それでも小松の意識がうすらいで歩みが遅くなると、そのたびに清左衛門は雪をかいて雪洞をつくり、小松の手足をさすり、酒と陣中食をあたえて小松の体力の回復を待った。そうして一昼夜を歩きとおした朝、はるか遠方の山中、米良の方角で、銃声がこだました。銃声は次々に鳴り響いた。「清左!」と小松が悲鳴のような声を上げた。清左衛門は、しばらく銃声の鳴る方向を見つめていたが、しずかに小松を振り返ると、大事ございませぬ、土地の猟師の火縄でござる、と言って微笑んだ。嘘であった。その銃声は、米良をめざしていた本隊が島津軍の追撃を受けたことを意味していた。このとき、米良を通過していた本隊は島津軍の強襲を受け、足弱な女中らは足裏を血に染めて逃げまどい、逃げきれぬと観念するや、辱めを受けるよりは、とその多くが自害して果てた。小松の姉も足を痛めて逃げ切れず、三位入道が泣きながらこの姫を自ら斬っている。清左衛門は、さあ、姫、参りますぞ、と言って小松をうながした。小松は泣き出しそうな目で清左衛門を見つめ、うなづいた。うなづいた瞬間、その目から涙がはらはらとこぼれた。清左衛門は、この姫に、二度と嘘は言わぬ、と誓った。清左衛門は無言で、再び雪を押しのけて歩き始めた。

 清左衛門は、用心のため人家を徹底して避けた。その人跡未踏の雪原を歩くふたりきりの逃避行もすでに十日に及んだ。薩軍の追撃も受けず、高千穂の剣路も無事に抜けた。あと三日もすれば大友領である豊後大野にたどりつく。清左衛門の顔にもようやく安堵の表情が浮かんだ。目前に、きらきらと輝く一本の光の筋がある。五ヶ瀬川であった。あの川を渡れば、豊後はもう目の前ですぞ。と、清左衛門は小松に言った。小松は、「もうすぐ、おわるのか」と言った。さよう。もうすぐ、おわります。姫様、よく堪えましたな。と清左衛門が答えると、小松は、「そうか。清左と旅をするのはもう、おわりか。こまつは、もっと清左と旅がしたいぞ」と言った。はは。おたわむれを、と清左衛門は笑った。小松も笑った。清左衛門は、渡し場の船頭に銭をつかませると、小松を舟に乗せた。と、その時、銃声が鳴った。ぴゅう、と銃弾が風を切る音が清左衛門の耳をかすめた。清左衛門は蓑を脱ぎ捨てると、背に負った大刀を引き抜いた。川堤を越えて、十人ほどの薩兵が姿を現した。銃声が立て続けに響き、ぴゅん、ぴゅん、と銃弾が空気を切り裂いた。この場で薩兵を防がねば姫が逃げ切れぬ、と一瞬のうちに判断した清左衛門は、行け! と船頭に命じて舟尻を強く蹴った。船頭はあわてて櫂を漕いだ。舟がするすると岸を離れた。「清左!」と小松が叫んだ。清左衛門は舟上の小松を振り返り、ここで防ぎます。向こう岸の河内村にてお待ちあれ、と言うと、にっと白い歯を見せて笑った。「清左。必ず!」と小松が言った。「おう!必ず!」と清左衛門は答えた。そうして、また姫様に嘘を言ってしまった、と思った。川中へ遠ざかる小松の白い顔を目に焼き付けた清左衛門は、たちまち身をひるがえすと、白刃を抜きつれて殺到する薩兵の群れに向かって突進した。

 三位入道の本隊が河内村に到着し、同村の豪族にひとりかくまわれていた小松と再会したのは、それから三日後のことである。その後、三位入道一行は、大友宗麟の派遣した軍兵に護衛されて豊後領内に入った。雪中の逃避行は十七日間におよび、はじめ三百有余名いた一族郎党は、豊後にたどりついた時には百名足らずにまで減っていたという。後年、三位入道の子、伊東祐兵は秀吉に仕えて家名を復興し、その血統である日向伊東家は日向飫肥藩主として明治の廃藩置県まで存続した。小松は、その後、大友家の重臣に嫁したと伝わる。そのほか、とくに記録がないところを見ると、穏やかで幸せな人生であったのだろう。小松と五ヶ瀬川で別れた清左衛門のその後は、伝わっていない。

 

 

 

 

No. 170131 便所のネズミ

 楚の人、李斯は、便所のネズミが汚物を食らい人犬におびえる一方、官倉のネズミはたらふく粟を食らい人犬も眼中になかったのを見て、卒然として人生の奥義を悟り、人の価値はその居場所で決まるとして己れのあるべき居場所を探し求め、ついに始皇帝の治める大秦帝国の宰相にのぼりつめた。と、いうのが、史記列伝の伝えるところである。が、どうやらこれは、少し事実とは違うらしい。

 類書によると、事実は、こうである。官倉の貧しい小役人に過ぎなかった若き李斯は、みぞれの降る凍えるような冬のある日、便所に行って、そこで汚物を食らう痩せこけた便所のネズミを見つけた。背中に白いすじ模様のあるそのネズミは、ほとんど動くこともできずに死にそうに見えた。こころ優しい李斯は、そのネズミを拾い上げると、ふところに入れて温めてやった。ネズミは、ようやく体が温まったのか、李斯のふところの中をごそごそと動き回った。李斯はくすぐったくて微笑みながら、官倉の中に戻った。官倉の中には、その年収穫された粟が山と積まれてある。李斯は、上役のいないスキを見はからって、ふところから便所のネズミを取り出すと、そっと、粟の山に放ってやった。ネズミは李斯をふりかえると、あたかもお礼をするかのように、ちょっと頭を下げると、たちまち粟の山の中に姿を消した。李斯は、満足した。これで、あいつも、便所で飢えて凍え死ぬような惨めな死に方をすることはあるまい。せっかく、天から授かったいのちではないか。あたたかい倉の中で、おなか一杯粟を食べるがいい。おまえがいくら食べたところで、この巨大な官倉の粟が減ることはない。遠慮はいらぬ。と。

 その翌日のことである。昨夜のうちに、みぞれは雪となって深く積もっていた。李斯は、白い息を吐きながら、便所に行った。そして、再びそこで、背中に白いすじ模様のあるネズミが汚物を食べているのを見た。あいつではないか!? 李斯は、信じられなかった。なぜ、戻ってきた。死にたいのか。李斯は、再び、ネズミを拾い上げようとした。が、ネズミは、チュッと鳴いて、李斯の手をすり抜けて便所の奥へと逃げ去った。その時である。李斯は、はっとした。すべてがわかったような気がしたのだ。あのネズミは、戻ってきた。あのネズミは、生まれながらの便所のネズミだったのだ、と。いかに温かく豊かな官倉に連れて行っても、彼は、元の場所に戻るのだ。なぜなら、それが彼の居場所だから。便所のネズミは、所詮、便所のネズミに過ぎない。それを無理やり、豊かであたたかい官倉に連れて行っても、彼にとっては、単に迷惑で面倒なことでしかなかったのだ、と。そして、若き李斯は、卒然として悟ったのである。人もあのネズミと同じことである。ひとは、あるべき場所に、戻らなければならない、と。

 人の居場所は、はじめから決まっているのだ。便所のネズミは、便所で生きて死ぬ。官倉のネズミは、官倉で生きて死ぬ。それを何かが間違って、便所のネズミが官倉に連れて行かれても、かえって苦しいだけなのである。人も同じだ。居場所が人の価値を決めるのではない。人の価値は、はじめから決まっている。居場所も決まっている。が、多くの人が、その居場所を間違っているのである。我々は、もともとあるべき居場所に、戻らなければならないのだ。便所のネズミは、便所に戻れ。官倉のネズミは、官倉に戻れ。そうして、決して、便所のネズミを官倉に連れて行ってはいけない。それは、便所のネズミにとって幸福どころか、単なる迷惑に過ぎないのだから。逆に、官倉にいるべきネズミが、運命のいたずらで、便所に捨てられたとしても、彼は、必ず、官倉に戻ろうとするだろう。汚物を食らいながら、便所のネズミたちとくだらない話題でげらげら笑っているような日々を過ごして満足することは決してない。彼は自分の居場所に必ず戻る。必ず!

 と、楚の人、李斯は悟るや否や、官倉の頭の悪い上役に辞表をたたきつけ、難解な法家思想を刻苦勉励して修めると、大秦帝国の官僚となってついに位人臣を極めた。

 後日、咸陽の都で一、二を争う豪商が、宮廷で李斯と面談した。大臣どもに賄賂を贈って巨富を得ていると噂され、皇室からも一目置かれるほどの豪商であった。豪商は、宰相となっても昔のままの粗末な衣服を身にまとっている李斯を見てあなどり、「閣下はもともと楚国の官倉の小役人だったとか。それがいまや大秦の宰相様とはね! まさに青雲直上のお人ですなあ」と言って、見下したように笑った。李斯はしずかに微笑んで、こう応えた。「いや、わたしは、あるべき居場所に戻ってきただけです。あなたも、そんな立派な着物はさっさと脱いで、あなたのほんとうの居場所に戻るがよろしかろう。蜀漢の奥地の流刑地などはどうか。少なくとも、この神聖なる宮廷は、おまえごときの居場所ではない」と。豪商は震えあがった。

No.170129 そして、なぜ、君はそこに。

 それ以来。彼は世界を捨てた。彼の世界はかたちをなくし、目に見えるものは薄ぼんやりとした色彩の明滅にすぎず、耳に聞こえるものは不調和な雑音にすぎなくなった。

 それ以来。彼は愛を信じることをやめた。彼はいのちをうしない、彼のむきだしのたましいだけが絶対の孤独のうちに浮遊した。

 彼の意識は崩壊しはじめた。無数の世界が彼のたましいをめぐって回転し、その無数の世界の間隙を、彼の意識はレールのないジェットコースターのように暴走し続けた。彼は目を閉じた。耳をふさいだ。それでも彼の意識は無明無音の混沌の中で、ピンボールの球のように弾かれ、もてあそばれた。誰か、と彼は叫んだ。が、それにつづくことばを口にすることなく沈黙した。誰か、たすけて! 誰もたすけてくれるはずがなかった。誰もいないのだから。そもそも彼を苦しめたのは、その「誰か」だから。彼は、暴走し旋回する意識の中で、誰かって、誰だよ。と、苦笑した。自らのもらす自嘲の笑い声だけが、彼にとっての真実であった。

 きらり、と光った。混沌の闇の中に。何かが。が、漆黒の闇はもとの闇に過ぎなかった。

 「・・・」と、何かが聞こえた。ような気がした。が、しんと静寂が無限に広がるだけだった。

 いやちがう。何かが光った。何かが聞こえた。何かが、僕のたましいに、触れた! 彼は目を見開いた。曖昧模糊とした色彩の明滅が洪水となって目に流れ込んできた。その中に、何かがある。何かが動いている。これは、何だ。この、うごく影は、何だ。彼は耳をふさぐ手をはなした。無数の不協和音の振動が耳をつんざいた。その振動のすきまに、何かが聞こえる。小さな消えそうな音。この音は、何だ。彼は目をこらし、耳をすました。ひと? この影は、ひとの姿。この音は、ひとの声。その影はだんだんかたちとなって、その声は空気を震わせて、彼の前に、いま、ひとりの少女となって現れた。いや、少女かどうかもわからない、おとなのような、こどものような、ふしぎな少女。彼は少女に言った。君は誰だ。少女はこたえた。「あなたは、あたしをよく知っているはずよ」と。そう言われて、彼は、少女をいつも身近に知っているような、毎日見ているような気がした。すると、少女が彼に言った。「やっと、会えたね」

 やっと、とはどういう意味だ、と彼は言った。まるで、僕を探していたみたいなことを言うじゃないか。少女は言った。「探していたよ、ずっと」嘘だ!と彼は言った。おまえは、僕の創った幻だ。また、僕をだます気か。消えろ。消えてくれ。これ以上、僕を苦しめないでくれ。すると、少女は言った。「こわいの?」と。彼は言った。やめてくれ。もう、やめてくれ。僕はこれ以上、世界を憎みたくない。君たちを憎みたくない。僕にかかわらないでくれ。僕は、ひとりがいいんだ。それでいいじゃないか! すると、少女は「でも、もう、ひとりじゃないわ。あたしは、消えたくないもの。あなたが消えろと言ったら、わたしは消えちゃうの。わたしを消さないでよ」と言って、微笑んだ。彼は言った。で、また、僕は、君にだまされるのか。少女は言った。「そうよ。あなたは何度でもだまされるの。あたしにだまされるの」彼は言った。だまされることがわかっているのに、君を信じろというのか。少女は答えた。「そうよ。あなたは、何度でもあたしにだまされるの。それでも、あたしを信じ続けるの。そのたびに、あなたは、逃げる。誰もいない闇の中に。でも、また、あなたはあたしに出会うのよ。永遠に」

 永遠に?そう。永遠に。永遠に君と出会うのか。そうよ。永遠にあたしと出会うの。あなたは孤独にはなれない。あなたは孤独じゃないのよ。だって、あたしは、永遠にあなたを探しているんだから・・・

 彼は、もう一度信じようと思った。まただまされてもよい。また裏切られてもよい。また倒れてもよい。また無明無音の混沌の闇の中でもがき泣いてもよい。何度でも君を信じよう。そしてまた僕をだますがいい。そしてまた僕と出会うがいい。そして、僕は、永遠に君に問いかけよう。なぜ、君はそこにいてくれるのか。と。もしかしたら、僕たちは、孤独ではないのかも知れない。と。