バナナの選択
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                バナナは、生きるために、子孫繁栄の選択権さえも人類にゆだねたんだ。 一生懸命に生きるって?                 生きる、ということにおいて、僕たちの決意なんて、 バナナの勇気の百分の一にも及ばないよ。         ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

No.170109 愛? 笑わせるなよ。

 先生って、いつも、冷たいよね。と、その女生徒から言われたとき、彼は、愕然とした。彼は、塾講師として、この少女の成績を上げるために、どれほど講義内容を工夫したことだろう。どれほど懇切丁寧に解説してやったことだろう。時給も出ないのに、いったい何時間、自主勉の居残り授業をしてやったことだろう。そうして一年間、彼女の成績は飛躍的に向上し、その日、めでたく志望高に合格したのだ。さっそく塾に来た彼女は、彼の元に走り寄ると、上気した顔で合格したことを報告した。彼はうれしかった。僕の厳しい授業によくついてきた。ほんとうに、よく頑張ったね。良かった。ほんとうに、良かった!と、そう思いながら、「そうか。良かったなあ。」と言った、そのことへの、彼女の返事が、「先生って、いつも、冷たいよね」の一言であった。彼女は、むっとした顔をして彼に背を向けると、他の生徒たちの輪の中に戻って行った。彼の心は、彼女にはまったく伝わらなかった。一年間の彼の熱い思いも、懸命な努力も、彼女には「冷たい先生」という印象しか残してはいなかった。彼は、愕然とした。と同時に、嫌な予感にとらわれた。おれは、いくら頑張っても、結局、冷たい人間として生きることになるのではないか。温かい愛情というものを知らないまま、一生を終えるのではないのか、と。そして、彼の悪い予感は、その後、実現された。

 彼には、恋人がいた。結婚するつもりで、既に一緒に住んでいた。彼は、彼女をこよなく愛していた。彼女からも愛されていると思っていた。彼女には、彼がはじめての男だった。お互いが、お互いに出会うためにこの世に生まれたのだと思った。赤い糸、というものを本気で信じた。それは、同棲して三年が過ぎようとした春の夜であった。彼女が、急に思いつめた顔をして、「あたしを、もっと大事にして」と言った。彼は、息が止まりそうになった。大事にして? 大事にしてだって? 大事にしているじゃないか。これ以上、大事にできないくらい、大事にしているじゃないか!と、心の中で叫びながら、「大事にしてるよ?」と言った。すると、彼女は無表情のまま、ついと立ち上がり、キッチンに行って包丁を手にすると、「うおー!」と叫びながら彼に向って突進して彼の一歩前で立ち止まった。彼は、なすすべなく呆然としていた。目の前で、彼女の握った包丁の刃先が小さく震えていた。すると、彼女は、くるりと背を向けてキッチンに戻り包丁をしまうと、そのまま座り込んで泣き始めた。彼の心は、彼女のどこにも届いてはいなかった。それから間もなく、彼女は、別の男の元に去った。ずっと以前から、彼女は、その男とつきあっていた。そもそも彼女は、彼がはじめての男ではなかった。別れ際の捨て台詞で、彼女は彼にすべてを話した。彼女にとって、彼は、いく人もの男のうちの一人に過ぎなかった。赤い糸など、どこにもなかった。おめでたい奴、という自虐の笑いが、吐き気とともにこみ上げてきた。あの時、あのまま刺してくれればよかったのに、と彼は思った。

 数年後、彼は、職場で出会った女性と結婚していた。べつに愛情もない。赤い糸もなにもない。そういう甘く温かい幻想はいっさい、持たなくなっていた。職場で出会って、交際して、なりゆきで結婚した。それだけであった。山野のけものと同じであった。たまたま森で出会った雄と雌とが巣をつくったに過ぎない。けものしかいない世界で、ひとりだけ人間の愛を求めても虚しいだけだ。発狂して死ぬしかあるまい。生きていけぬ。生きようとするのであれば、自分も、けものになるしかない。ひとの心を捨てて、本能の衝動のままに山野をうろつくだけの汚らわしく醜いけものに身を落とすしかないではないか。それが、彼が見つけた唯一の生きる知恵であった。彼は、人間であることをやめた。ひとの愛を求めることをやめた。かつて彼の心の中にあった熱い思いは燃え尽きて、心は冷たく凍りついた。

 彼は、かつて女生徒に「冷たい」と言われたとおりの人間になった。いや、もしかしたら、その当時から彼は、無意識のうちに、冷たい人間になろうとしていたのかも知れない。そうしなければ、愛を裏切られたときに耐えられないから。彼は、彼の求める愛など、この世に存在しないことを、はじめから知っていたのだ。赤い糸を見つけたと喜び、真実の愛を手にしたつもりでいても、それが、どうせいつかは裏切られることを知っていたのだ。せっかく見つけた愛が裏切られることにおびえながら、裏切られるその時にそなえて、冷たい人間の仮面をつけ、それを鎧として身を守っていたのだ。女生徒は、その仮面を見て、そのとおりのことを素直に話したに過ぎない。包丁で彼を刺そうとした彼女は、彼を刺そうとしていたのではなく、彼の冷たい仮面を切り裂こうとしていたのではないのか。そうだ。彼は、むかしから、冷たかったのだ。身を守るために冷たい人間の仮面をつけてきた。冷たい仮面を通してしか、自分の心の中の愛を伝えることはできなかった。そうして、彼は、いまや、仮面だけではなく、心まで冷たく凍てついてしまった。純粋、純潔、純愛、無償の愛・・・そういった、美しい言葉に触れるたびに、彼は思うのだ。純粋? 愛? 笑わせるなよ。どこにそんなものがある。どいつもこいつも、きたならしい生き物にすぎない。おまえらが、愛を語るな!と。むろん、彼もまた、そのきたならしい生き物の一匹に過ぎない。けれども、この一匹の醜悪な生き物は、ときどき、かつて心の中で燃えていた熱い炎の記憶に苦しんで咆哮するのだ。醜いけものとして生きるよりは、純粋な愛の炎に焼き尽くされて死にたい、と。

 

 

No.161030 千日間

 矢垣が、その女と暮らした日々は、ちょうど千日間だった。

 女は、なっちゃんと呼ばれていた。矢垣となっちゃんとは、大学のサークルで知り合った。矢垣が三年生、なっちゃんが一年生であった。やがてふたりは恋に落ち、矢垣のアパートで同棲するようになった。そうして、ままごとのような日々が過ぎた。

 少年期より貧困と暴力の下で育った矢垣は、幸福で平和な家庭というものを知らなかった。矢垣にとって家庭とは、嫌悪と憎悪の対象でしかなかった。親子の情も、家族の愛も、矢垣は微塵も信じてはいなかったし、欲してもいなかった。家族という生物的な血縁関係などは、理性的であるべき社会の発展にとって害悪であるとさえ思っていた。家族など、国家が、公共の利益の名のもとに解体すれば良い。子供は生まれるや否や、すべて国家が親から取り上げて、公共施設で教育すれば良い。そうすれば、親のせいで子供が苦しむことはなくなる。金持ちの親の下に生まれたら幸福で、貧乏人の子として生まれたら一生苦しむなどという、バカバカしい理不尽はなくなる。子供たちは、平等かつ公平に、自らの努力と能力のみで評価してもらえる。親など、いらぬ。家庭など、いらぬ。国家があれば良い。おれの親は、国家だ。この日本国こそが、我が愛する親だ。

 唾棄すべき家庭から逃れるために、矢垣は、住み込みの新聞配達をして学費をかせぎながら、大学へと進学した。あらゆる奨学金に応募して、いくつかの財団からの給付を獲得した。給料も奨学金も、一円も無駄に使わずにせっせと貯金した。そうして一年を経て、新聞配達の住み込み部屋から脱出し、学生アパートを借りた。自分だけのアパート。当面の学費も生活費もある。そして忌まわしき家庭との関係は途絶している。自由! 矢垣にとって、生まれて初めてと言って良い解放感であった。矢垣は、「普通」の大学生としての生活をしたかった。さっそく、サークルに入った。数人しかいない「法律研究クラブ」というサークルだった。「法研」と略した。法研の活動は、ニュースになった事件の裁判例などを部室で討論するだけのひどく地味なものであったが、矢垣にとっては、その活動の中身などはどうでもよく、「学生らしさ」を味わえれば、それで十分であった。大学の講義にも欠かさず出席した。国家とは何か。国家と個人の統合は可能なのか。矢垣は自らの国家論の構築に没頭した。法研のメンバーには左翼思想に傾斜した者が多かった。矢垣の国家至上主義的な主張は、地味な文化系サークルに過ぎなかった法研内部に議論を起こした。法研の部室では、部員同士が深夜まで議論が続けることも珍しいことではなくなった。矢垣は、部員たちの教条的な左翼思想などは軽蔑し切っていた。金に困ったこともなく何不自由なく育った中産階級の子弟どもが、労働者の権利を我が物顔で主張する姿には滑稽さしか感じなかった。が、そういういかにも「学生的な」雰囲気に自分が浸っていることに満足した。

 その翌春、廃部寸前の法研も新入生を募集しようということで、すこしばかり絵心のある矢垣がポスターを描いた。当時の人気漫画のキャラクターを模写しただけのふざけたポスターだったが、これがどういうわけか女子学生に好評で、法学部の女子学生が数人入部した。そのひとりが、なっちゃんだった。

 なっちゃんとのままごとのような同棲生活は、矢垣にはじめて、家庭というものの温かさを感じさせた。なっちゃんが戯れに言った「あなたの赤ちゃん生みたいな」という言葉に、矢垣は衝撃を受けた。石のように固く凍った心が溶けていくような心地よさに浸って恍惚となった。これが、幸福というものなのだろうか、と思った。だとすれば、なっちゃんは、おれに幸福を授けてくれた天使ではないか。ああ、そうとも。天使だ。我が半身だ。そうだ、むかし、おれが小さいころ、死んだバアちゃんが言ってたな、観音様は、どんな願いでも聞きつけて、人の姿となって現れるって。なっちゃんは、おれの願いを観じて示現した観音様か。観自在。南無観世音。などと、なっちゃんに感謝し、神仏に感謝し、家庭の幸福に陶酔した。

 矢垣は、大学の講義に行かなくなった。国家と自分との関係を追究することに、いっさい興味がなくなったのである。国家など、どうでもよくなった。法研にも顔を出さなくなった。毎日、ぼんやりと過ごした。朝、大学に出かけるなっちゃんを見送り、昼間は小説を読みちらし、夕方から近くの学習塾で講師のアルバイト、そうして夜はなっちゃんと食事をして眠る。そういう日々の繰り返しであった。が、矢垣は、幸福であった。同じことを繰り返すことの幸福。「これでいい。こうしてこのままで生きていきたい。」と願っていた。いや、願っていたのではない。そのような日々が永遠に続くと信じていたのだ。微塵も疑ってはいなかった。それまで幸福を知らなかった彼は、幸福が長く続くものではないということも知らなかった。破綻は、突然、やってきた。

 その夜、学習塾の講師のアルバイトを終えた矢垣は、ふと思い立ってケーキ屋に寄り、なっちゃんの好きなショートケーキをいくつか選んで店を出ると、近道のために大学構内を歩いていた。すると、後方から、けたたましいバイクの音が近づいてきて、矢垣を追い抜いて行った。バイクは男女の二人乗りで、後部に乗った女の後ろ姿は、夜目にも明らかに、なっちゃんであった。矢垣は、どう理解すれば良いのか分からない不安を覚えて困惑した。アパートに帰ると、なっちゃんがいた。なっちゃんは、いつもどおり、「おかえり」と笑った。矢垣は、「ケーキ買ってきた」と言って、ケーキの箱をテーブルに置いた。そうして、一呼吸おいて、「バイク、乗ってたね」と言った。「え?」となっちゃんが言った。矢垣は、「バイク、乗ってたね」ともう一度繰り返した。なっちゃんは、薄く笑って、「バイク? 乗ってないよ?」と言った。矢垣は、「そう」と答えた。なっちゃんが、にっこりと笑って、「ほら。ケーキ食べようよ」と言った。矢垣は、自分でも意外なほど大きな声で、「そんなもん、いらん!」と言った。

 なっちゃんが、矢垣のアパートを出たのは、その数日後であった。なっちゃんは、菩薩ではなかった。ひとりの人間の女であった。夢も欲もある生身の女であった。その日、なっちゃんは、矢垣に、別の男とつきあっていることを告げた。「もう、だめなのか」と矢垣が問うと、なっちゃんは、「ゆるしてもらえないことをしたから」と言った。それ以上、矢垣は、もう何も問うことができなかった。アパートを去る間際、なっちゃんは、矢垣に、「もっと戦ってほしかった」と言った。戦う? 矢垣にはその意味が分からなかった。矢垣は、つねに戦っていた。全力で戦っているつもりだった。忌まわしい家庭と、憎悪すべき家族と、いや、そういう自分の抗しがたい運命とつねに戦ってきた。戦う? これ以上、何と戦えというのか。立身出世に励めとでもいうのか。このままではいけなかったのか。君との永遠の幸福を信じたことがいけないというのか。君は、おれに、幸福と戦えというのか。幸福はおれにとって敵だというのか。おれは幸福になってはいけないのか!?

 なっちゃんとの千日間は、もはやいっさいの記憶の風景を失って、矢垣に、ただひとつの問を残しているだけである。「おれは幸福になってはいけないのかー」いまだ矢垣は、この問いに答えを見い出せないでいる。

 

 

 

 

No.160902 ゼニ山と呼ばれた男の愛

 その男は、ゼニ山、と呼ばれていた。本名ではない。金に執着していたから、周りからそう呼ばれていた。決して、悪いやつではなかった。ほんの少数の心を許しあった友人だけが、やつの純粋さを知っていた。

 ゼニ山は、ぶおとこだった。背も低く、眼鏡の出っ歯で、ちっとも、これっぽっちも、女にもてたことがなかった。酒も飲まない。タバコも吸わない。パチンコも競馬も、いっさい、やらない。安月給を節約して、ボロアパートと会社とを往復するだけの日々を送りながら、せっせと、少しづつ、貯金をして、中年といわれる年齢になったときには、ようやく、郊外の小さな家なら買えるくらいの額にはなっていた。ゼニ山は、家を買おう、と決めた。どうせもう、結婚なんてしないのだから、貯金をはたいて、独身の後半生を快適に過ごせる家を買おう、ここまで真面目に生きてきた自分へのご褒美だ。ゼニ山は、そう思った。

 ところが、人生はまことに不可思議なもので、ゼニ山が都心まで二時間もかかる埼玉県の某町に小さいながらも新築の家を買った途端に、彼女ができた。それも、十歳以上も年下の美人で、ゼニ山の新居の近所にある弁当屋の店員の礼子ちゃん。ゼニ山が毎日毎日飽きもせずに一番安い「のり弁」(三百円)ばかりを注文するので、「のり弁、お好きなんですね」と話しかけたのが恋のきかっけ。その日以来、ゼニ山は、「のり弁」を「幕内弁当」(五百円)に替えた。ある日、例によって幕内弁当を頼むと、礼子ちゃんが映画の無料券を出した。「オペラ座の怪人」だった。ゼニ山が戸惑っていると、礼子ちゃんが、「すごく良い映画なんですって。券が二枚あるの。見に行きましょうよ!」と言った。 ゼニ山の人生初めてのデート。映画は何だか良くわからなかったが、礼子ちゃんは隣の席で泣いていた。帰りに二人でファミレスで食事をした。二人ともハンバーグを頼んだ。礼子ちゃんは、おいしい!と笑った。そうして、その夜、礼子ちゃんをゼニ山の新居に招いた。翌日から、礼子ちゃんは、ゼニ山の新居から弁当屋に通うようになった。

 礼子ちゃんとの新生活が始まった。ゼニ山は、幸福というものをはじめて感じた。一カ月ほどして、ゼニ山は思い切って、プロポーズした。礼子ちゃんは泣いた。そうして、あたしにはそんな資格がない、と言って、そのわけを話した。礼子ちゃんは、結婚に一度失敗していた。そうして、そのときの元夫が今でも付きまとって、金をせびったり嫌がらせをするのだという。ゼニ山は、そんなことは全然気にしないと言って、結婚指輪を礼子ちゃんに贈って、入籍した。

 ゼニ山は、働いた。もう若くないことはわかっている。けれども、体の内側から、生きる力が湧き上がってくるのだ。残業は自ら買って出た。人の仕事までやった。ぜんぜん苦ではなかった。新居に帰れば、礼子ちゃんがいる。ゼニ山は、礼子ちゃんのために生きよう、礼子ちゃんが笑ってくれるために生きようと誓った。

 ある夜、ゼニ山が新居の前まで帰って来ると、人相風体の怪しいひとりの男が、新居をのぞきこむようにしてうろついていた。ゼニ山は、こいつが、礼子ちゃんの元夫かと合点して、男に近づき、あんたが礼子の離婚したダンナか、いい加減にしないと警察を呼ぶぞ、と言った。すると、その男は、良く見ると人の好さそうな顔を不思議そうにしかめて、警察を呼びたいのはこっちの方ですよ、あんたもだまされてるのか、と言った。男の話では、礼子ちゃんは、男と入籍した直後に、男の財産の一切合財、総額五千万円を使い果たした。驚いた男は、礼子ちゃんとあわてて離婚して損害賠償を求めたが、今もって、一円も戻ってこないのだという。

 ゼニ山はショックだった。裏切られた、と思った。男と別れて新居のドアを開けると、礼子ちゃんが立っていた。そうして、「ごめんなさい」と言って、泣いた。ゼニ山は、礼子ちゃんの泣き顔を見て、はっとした。ああ、いけない、おれは、いま、このひとを不幸にしている。おれは、このひとが笑ってくれるために生きると誓ったはずだ。おれのどうでもいい人生を、このひとは幸福にしてくれた。おれは、裏切られたんじゃない。このひとは、何も裏切ってはいない。このひとの愛を、おれが疑ったのだ。裏切ったのは、おれの方だ。ゼニ山は、礼子ちゃんを抱きしめた。そうして、「心配するな」と言った。

 それから一か月後、礼子ちゃんは、ゼニ山のすべての貯金を使い果たした。何に使ったのか、皆目わからない。とにかく、数百万円はあったはずの通帳残高が、ある日、百円になっていた。ゼニ山は、それでも、礼子ちゃんを、いっさい責めなかった。二か月後、新居が、二千万円の抵当に入っていることが判明した。三か月後、礼子ちゃんが、ゼニ山の名義で、三十か所以上の消費者金融闇金から総額一千万円以上を借りていることが判明した。返済を迫る電話が鳴りっぱなしの状態となった。ゼニ山の会社にも闇金から取立の電話が頻繁にかかってくるようになった。会社に取立の暴力団員が乗り込んで来るに及んで、ゼニ山は解雇された。ゼニ山は、日雇いアルバイトをして何とか生活費をやりくりしたが、その間にも、礼子ちゃんは、どこで借りてくるのか、財布に一万円の札束を詰め込み、ブランド服をまとって、喜々として銀座に出かけるのであった。ゼニ山は、そういう礼子ちゃんを、いっさい、責めなかった。

 その朝も、「銀座に行ってくるわね!」と笑う礼子ちゃんに、ゼニ山は、「行ってらっしゃい!」と笑顔で声をかけた。しいん、と静まった新居のリビングで、ゼニ山は、ひとり、ぼんやりと座っていた。時計の音が、チクタク聞こえた。ゼニ山は、ふっと立ち上がると、玄関の隅に置いていたポリタンクをリビングに運んだ。ポリタンクのキャップを開けると、灯油の匂いが鼻をついた。ゼニ山は、ポリタンクを頭上にかかげると、全身に灯油を浴びた。そうして、「おれは、このために、生きてきた」と言うと、百円ライターで火をつけた。

No.160730 なんじ、なすべきことをなせ

 あんたね、何のために生きてんの? と、人から問われ、あるいは自らに問うてみたことのない人なんて、たぶん、いないだろう。いたとすれば、そのひとは、きっと、永遠の無意味、永劫回帰の無限奈落にも耐えうる超人級のつわものであろう。ところが残念ながら煩悩におぼれる平凡人に過ぎぬ僕などは、もう毎日といってよいほど、いや、数分おきにといっても過言でないほど、ああ、僕は、何のために生きているのだろう、と懊悩輾転するのである。

 生きていることの意味が、ほしい、ではないか。ただ生きていれば良い? そうはいかぬ。食って寝て、人生80年としておよそ3万日を無為に浪費して死ねるか。ひととしてこの世に生を受けたからには、ひととして世のため人のため役に立って死にたいと思うのが人情じゃないか。この世に生をうけて立派に生きたという「しるし」をこの世に残して、にっこり笑って来世に去りたいではないか。僕にできることはないのか。僕は何のために生きているのか。 天が僕に与えた天命とは何ぞや!

 と、ずいぶん頑張って叫んでみても、そこは例によって「神の沈黙」というやつで、天命が何かなんて、誰にも、さっぱりわからんのである。むかしから五十知命とか言うけれど、世の五十おやじどもの、いったいどれだけがおのれの天命を知っているであろう。知るわけがない。断言できる。残業帰りにビール飲んで、ああ、このために生きてんなあ、おれ、と悲哀とともに実感するのがせいぜいである。などと、つらつら考えながら風呂上がりにコーラを飲んでいて(だって風呂上りはビールよりコーラの方がおいしいんだよね)、僕は、ふと思ったんだ。ていうか、それが、おれの天命なんじゃねえの? と。

 天命というから、何だか、世のため人のため、人類の進歩のため、はたまた歴史の先駆者、維新回天の立役者、みたいな立派な役割を期待しているが、そうは限らぬ。ビール飲んで、ああ、うまい! と言うだけの天命も、あるかも知れないじゃないか。実に、つまらない天命だ。けれども、たいていの人の天命なんて、そんなものに違いないのである。神さまだって、そんなにたくさんの立派な天命はつくれないだろう。立派な天命は、ごくごく限られた人々にのみ賦与されるわけで、だからこそ、そういう人々は、歴史に名を残すこともできるわけで、そういう人々こそ本当の意味のエリートなのである。で、べつにエリートなんかとは縁もゆかりもないわれわれ凡夫は、残業後にビール飲んで、うまい!とうなるだけの天命とか、熱々のラーメンを5分で食べ切る天命とか、一分以内に一円玉を百枚積み重ねることができる天命とか、そういうどうでもいい行為を日々遂行することを天命として天から賦与されており、そうして、まさかそれが自分の天命とは思いもせずに、そのどうでもいい行為を実直に日々遂行しているのではないかという疑いがおおいにあるのだ。だとすると、わが天命は何ぞや!などと問うことはまことに無意味な愚問であって、そんなことを問うまでもなく、すでに僕は、天から賦与された天命を無意識のうちに遂行していたことになる。

 そんな天命をつまらないと思うか、どうか。「なんじ、なすべきことをなせ。」とは、キリストが裏切者ユダに与えた言葉だ。この言葉を聞いたユダは、イエスを売るために祭司長のもとへ走った。なんじ、なすべきことをなせ。ひとりひとりに、神は、天命を賦与している。天命を持たずしてこの世に生を受けた者などない。なぜなら、そうでなければ、実体もなき混沌の闇の中に、この世を創る「ことば」をもってわざわざ生まれてきた理由がなくなるから。いのちの理由。生きる理由。それを説明しようとすれば、「なんじ、なすべきことをなせ。」これに尽きる。そうして、そのなすべきことが、何なのか、それは、おのれのほかに誰も知らぬ。日々、なすべきことを、なせばよい。

No.160611 くしゃみと偶像崇拝

 くしゃみ、という現象ほど、僕をがっかりさせるものはない、と言っても過言ではない。まことに、あの、くしゃみというやつは、何とまあバカバカしいのだろう。へっくしょん!と実に素っ頓狂な声をあげて、つばきをまき散らす下品さはもちろん、何よりも、あの間抜けた顔はどうだろう。しかも、二、三回は連続するのである。へっくしょん、へっくしょん、へ、へ、へっくしょん!である。実にもう、ほんとに、バカバカしい。無意味である。くだらないのである。

 と、くしゃみの悪口を言ってると、えっへん、と咳払いして、眼鏡に白衣のお医者様だか学者先生だかが呼びもしないのに、のこのこ現れて、ええとですねえ、この、くしゃみという行動はですね、それによって、鼻腔内に侵入した悪性の細菌、ウイルスなどを、風圧によって体外に排出するという極めて重要な防御機能を果たしているのでありまして、まことに恐るべき精妙なる生体メカニズムと言うべきで、自然は偉大といいますか、進化の神秘といいますか、これはもはや神の領域でありまして人知の及ばざるところ、それをまあ、なんですか、くしゃみなんてくだらねえ、などと悪口を言う大バカ者がおるようでして、なんとも情けない限りでございますなあ、ははは。などと講釈を垂れるのである。

 何を言ってやがんだ。大バカ者は、てめえの方だ、大先生。と、僕は猛烈に言い返すわけである。進化の神秘? へ、へ、へっくしょん!が、神の領域? バカを言っちゃいけませんよ。神の領域が、あんな間抜けなわけがない。おまえこそ、畏れ多いとは思わんのか。そもそも、へっくしょん!が、細菌を対外排出するだのなんだのという説明は、あれはもう、間違いなく後付けの屁理屈である。お偉い学者が、う~ん、このくしゃみというやつは、これはいったい、何の意味があるのかのう? どう思うかね、君。などと、頭の悪い助手あたりにご下問になって、すると、この助手が、さあ、どうすかね、べつに意味なんかないんじゃねすか? と適当に答えたところ、大先生、烈火のごとくお怒りになって、バカ者!生体の反応には必ず意味があるのじゃ、君は、生命四十億年の偉大なる進化の歴史をバカにしておるのか、このくしゃみという行動にも、人知の及ばざる玄妙なる神の知恵が隠されておるに違いないのじゃ、さあ、それが何か探求すべし!と頑張って、で、とうとう見つけた答えが、風圧によってばい菌を吹き飛ばす機能、という、もうなんともバカバカしい結論で、頭の悪い助手もさすがに苦笑したとかしないとか。

 そりゃね、くしゃみすりゃ、のどの奥から鼻の穴まで息が、ぶうっと出るだろうから、鼻の穴のばい菌が飛ぶくらいのことはあるでしょうがね、それが進化の玄妙な技ですかね。おかげでそこらじゅうにつばきを飛ばして、不潔きわまりない。ばい菌をばらまいてるじゃねえか。要するに、後付けなんだよ。きっと何か、重大な意味があるはずだ、って初めから思い込んでるから、無理くりに、それらしい理由をこじつけてるだけなのである。生物の行動には、必ず何か意味があると決めてかかってるのである。意味のない進化などない、意味のない生体メカニズムなどない、と信じ込んでいるのである。それが、そもそもおかしいんだ。何の意味もない生体メカニズムがあっても、いいじゃないか。神様だって、たまには、へまをやらかすのだ。進化だって、ときには、意味のない淘汰をするのだ。と、何で考えないのだろう。くしゃみなんてその典型である。ほんとうは何の意味もないんだ。いわば、進化の「道草」に過ぎないのである。生体メカニズムの「バグ」みたいなもんである。神様もちょっと居眠りしてたのさ。それをまあ、これこそは、生体の精妙なる防御機能のひとつである!などと有り難がって、実にバカバカしい。それこそ、盲目的な自然崇拝である。そういうのを偶像崇拝というのだ。生物はすべて、合理的機構によって構築された完全体だと信じて崇拝しているのだ。生物が完全体だって? そんなわけがない。完全体などという言葉は神のみに許される。いかなる生物も、その完全体をめざして歩み続ける永遠の進化の途中ではないか。決して完全ではないのである。生体メカニズムに、無意味なバグや暴走があっても、ちっともおかしくないのだ。だとすれば、くしゃみが、何の意味もない、あほらしい生体反応に過ぎないと考えたって、べつにすこしもおかしくないのである。

 へ、へ、へっくしょん!とくしゃみをするたびに僕は、いらっと不機嫌になって思う。ああ、くだらない、あほらしい、人間は、なんて不完全なんだ、と。そして同時に僕は、そういう不完全であほらしい人間を、それ故に、ほんのすこしだけ、いとおしく思うのである。

 

No.160604 ユーコちゃん

 むかし、職場の近くのスナックに、ユーコちゃんというアルバイトの女の子が新しく入った。ユーコちゃんはその町のはずれにある小さな私立大学の学生で、学校帰りにジーパンにTシャツでお店に通ってくる姿は、ママの親戚の中学生が遊びに来たのかと思うくらいに幼く見えるが、チーママが貸してくれるおしゃれな服に着替えてカウンターに出てくると、ちょっと意外なほど綺麗に変身して大人ぶっている。僕は、ユーコちゃんを気に入った。いや、そんなもんじゃない。ベタぼれしたのである。僕は、ユーコちゃんに会うために、スナックに毎週かよった。ユーコちゃんのつくってくれる、いつもちょっと濃すぎる水割りを飲みながら、僕が、ユーコちゃんに文学論なんかを得意になって話して、それも酔っぱらって適当に話しているだけで、ほとんどデタラメな内容なのだけれど、それをユーコちゃんが、へえ、そうなんだ、ふうん、などと相づちを打ちながら聞いてくれるという、ただそれだけの時間だったのだけれど、それがもう僕には幸せな時間で、うれしくて、何がうれしいのか良くわからなかったけれど、今でも良くはわからないけれど、とにかく、うれしくて、何というか、自由、というか、平和、というか、とにかくそういう言葉で表したくなるような良い気分になって、お店が混んでいない時にはユーコちゃんを独占できるからなおさら調子に乗って、閉店時間の夜中の三時まで話し込むのが常で、そういう時の僕はもはや泥酔状態で半分眠りながら意味不明の言葉を繰り返しているだけになっているのだけれども、飽きもせず僕の相手をしてくれて、そうして、三時になったらタクシーを呼んで僕を車に押し込んで、じゃ、またね、と言って笑う。

 それから一年ほどが過ぎて、ユーコちゃんも就職活動の時期になった。就職難の時代だから、ユーコちゃんも苦労しているのだろう思って、僕は、ユーコちゃんを励ますつもりで、「ユーコちゃん、僕は、ユーコちゃんは、アナウンサーのような職業をめざすべきだと思う。君の、ひとを元気にする明るさと話術の巧みさは、ただ者ではない。まちがいなく君は、たくさんの人々を楽しませるような仕事が向いている」と、正直に真面目に言った。すると、ユーコちゃんは、ちょっと驚いた顔をして、実は大学とは別に、アナウンサーの養成学校に通っていることを明かしてくれた。そうだろう、そうだろうとも、と僕はうれしくなった。僕の目に狂いはなかった。この子は、自分の才能をちゃんとわかっているんだ。そして、その才能どおりの夢を描いているんだ。きっとうまくいく。うまくいくとも!

 ユーコちゃんは、各テレビ局のアナウンサー採用試験にことごとく失敗した。競争率は一千倍を超えるというから、片田舎の無名の小さな大学の学生に過ぎないユーコちゃんにとっては、さすがに狭き門だったのだろう。けれども、ユーコちゃんはあきらめなかった。テレビ局がだめでもラジオ局があると言って、いくつかのラジオ局のアナウンサー採用試験に挑戦して、ようやく地方ラジオ局のアナウンサーに合格したという。あたしね、ラジオのアナウンサーになれるみたい、とユーコちゃんがこっそり教えてくれた。僕は、そりゃあ、良かった、良かったと喜んだ。そして、その夏、ユーコちゃんは、スナックのアルバイトを辞めた。しばらくユーコちゃんの姿を見なかったのでチーママに尋ねると、あら、知らなかったの、あの子、辞めたのよ、急だったけど、と教えてくれた。

 それきりユーコちゃんには会っていない。ユーコちゃんのラジオも聞いたことはない。あれからもう十年になる。ユーコちゃんは、僕のことなどはもう覚えてはいまい。そういう僕も、ユーコちゃんという名前は憶えていても、ユーコちゃんの顔はおぼろげにしか憶えていない。道で顔をあわせても、もはやお互いに誰かわからない。もう二度と戻らない記憶。永遠の他人。そのうち僕の脳裏のおぼろげな記憶さえもきれいさっぱりと消え去って、僕の中からユーコちゃんという存在自体が消え去るだろう。そのひとの記憶がどんどん薄れていくことに、なす術もない。そのひとのことを忘れるということは、そのひとが僕の中で死ぬということだ。ユーコちゃんは、いま、僕の中で死のうとしている。瀕死の彼女を救う術はない。けれども、それでいいのだ。彼女を忘却の淵から救い出してはいけない。ひととの別れは、忘れるまでは悲しいけれど、忘れてしまえば何も感じない。彼女が僕の中で死んだ後、僕は、道で彼女と会っても、まったくの他人として一瞥もくれることなく目的地に急ぐであろう。それは、無数の別れに満ちた人生にとって幸せなことだ。

No.160514 天国のドアと蜘蛛の糸

 ああ、何て、つまらない人生だ、と思いながら今日もまた地下鉄に乗って家路につく。どうして、もっと金持ちの親のもとに、生まれなかったのだろう。そうすれば、人生はきっと、ずっとずっと楽しかっただろうに、とつくづく思う。まことに貧しい家庭であった。生きることに懸命の日々であった。掘っ立て小屋のようなボロ家の内で、ああ、今日も生きているね、ふしぎだね、と母子で弱々しく笑いあうような、そういう陰鬱な少年期であった。とにかく、金がなかった。母はひたすら働いていた。あんなに労働するひとを、僕はいまだ見たことがない。けれども、働いても働いても金がない。米櫃には米もない。明日食べる米がないという恐怖は、それを味わった者でないと決してわからない。

 貧乏自慢をするひとは、たいてい、明るい。明るく話さないとやりきれないからだ。真面目な顔をして、じめじめと貧困問題を語るテレビの中の評論家は、あれは、ほんものの貧しさというものを知らない。ほんものの貧しさの恐怖を知っている者は、おのれの貧しさの思い出を語るとき、つねに明るく冗談めかして話すのである。そういうふうに話すように自らを訓練したのだ。もし、深刻な顔で話そうとすれば、世界への恨み、憎しみに満ちた呪いの言葉が口からほとばしり出て、聞く人をして暗澹たる思いにさせるだけだろう。そんなつまらない話はない。

 そして、今日もまた相変わらず、僕は金の心配ばかりをしている。少年時代からいっこうに進歩がない。おとなになればきっと、金持ちになれるはず、と漠然と抱いていた希望は、ものの見事に打ち破られた。ずっと、貧乏。金がない。地下鉄から地上に出て、夜空を見上げて、ああ、きょうもまだ、生きている、ふしぎだ、と独り言をつぶやいている。きっと、これは、そういう運命なのだ。どんなに頑張っても、だめなのだ。どんなに勉強しようと、どんなに仕事に打ち込もうと、それはまあ、そこそこのところまではいくのだけれども、結局、だめ。だめなものは、だめ。遥かに高い岩壁の崖の上に、栄光のドアがあって、それをめざして崖をはいあがり、よじのぼり、やっと、そのドアの敷居に手がかかった!と思った瞬間、崖下に真っ逆さまに落ちて、首の骨を折る。そういう無駄な努力のくりかえし。それなら、はじめから崖なんて登らなきゃよかったんだ。ほら、あそこの美男美女の夫婦をみたまえ。そんな危険な崖上のドアなんかまるで眼中になく、崖下の小川のほとりに小さいけれど清々しいお家をたてて、日々の平和に感謝しつつ仲むつまじく暮らしているじゃないか。足るを知る。まさに人生のあるべき姿ではないか。なぜ、それが、できないのか。

 できないのである。無論、僕だって、崖など、登りたくないのです。なんですき好んで、首の骨を折って、何もかもご破算になるような、そんな馬鹿なことをするものか。が、それでも、崖を今もまた、登っている。落ちることはわかっている。どんなに頑張っても、だめなのだ。神が、そう決めた。神様は、僕の手の指先が、栄光のドアの端にようやくかかった、その瞬間を見はからって、その聖なるつまさきで僕の指先をちょいと踏むのだ。で、僕は、崖下に真っ逆さま。蜘蛛の糸。わが友、カンダタ。愛を知らぬ亡者は、天国には入れない。

 ああ、見よ。あの小川のほとりの夫婦の住まう愛に満ちた家のドアを。あのドアこそが、神に祝福された栄光の扉、天国への入り口なのではないのか。では、崖上のあのドアは、あれは、いったい、何なのだ。実は、あれこそ地獄への入り口ではないのか。が、それでもかまわないのだ。神が、そう決めたのだ。僕は、小川のほとりの愛の巣で幸福を享受する資格など、そもそも、持ってはいなかった。神は僕に、幸福になる資格をくれなかった。僕が何か悪事をはたらいたから資格を剥奪したというのではない。はじめから、くれなかったのだ。生まれながらの幸福の無資格者である。だから僕は、この崖を登り続けるしかないのだ。そうして、幾度となく無駄な努力をくりかえし、老いさらばえて、もはや崖をのぼる気力も尽き果てたその時には、次の人生の楽しい夢を見ながら、そうだ、お金持ちの親の元に生まれて、何不自由なく暮らして、お金の心配などしたこともない、そういう幸福な人生のシナリオでつくられた次の世界の夢におおいに期待しつつ、この苦役に満ちた世界に別れを告げればよい。その瞬間、すでに僕は別の世界の人生を歩んでいる。