バナナの選択
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                バナナは、生きるために、子孫繁栄の選択権さえも人類にゆだねたんだ。 一生懸命に生きるって?                 生きる、ということにおいて、僕たちの決意なんて、 バナナの勇気の百分の一にも及ばないよ。         ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

No. 170318 そのおもかげを追って。

 パソコン画面に表示されたKの姿は、十五年前と少しも変わっていなかった。ミッキーマウスとともに、ピースサインをしている。このひとは、年をとらないのだろうか。そのSNSに一枚だけアップされていたKの写真を、僕は当惑して見つめた。

 Kは、美少女であった。としか言いようがない。ほかに形容のしようがない。といっても、実際の年齢は当時、すでに二十代半ばであったろう。東大大学院の教室で、彼女をはじめて見た。あまりひとづきあいが得意でないらしく、いつもうつむきかげんで、ひとりでいることが多く、クラスメートのくだらない冗談にも声を出して笑うということはなくにっこりと微笑む程度であった。コンパだの懇親会だのといった酒の席にはただの一度も参加することがなかった。クラスの馬鹿な男どもがしつこく参加を求めても、彼女は困った顔をして「考えとく」とだけ言って欠席した。授業態度も極めてまじめで、遅刻も欠席もなく、予習も事前課題も万全で、教授の質問にもすらすらと回答した。遅刻、欠席はあたりまえで予習もろくにせず、教授の質問にいつも冷や汗をかいていた僕などとはまことに比べようのない才媛であった。僕は彼女を見るたびに、なんてかわいい頭のいい子なんだろう。と思っていたが、と言って彼女と何らの接点もなかったから、せいぜい教室で朝のあいさつをするくらいで日々は過ぎた。

 Kをはじめて見てからすでに一年が過ぎたころであった。僕が法学部付属図書館の書庫で論文雑誌を探していたところ、たまたまKが同じ書棚で専門書を探していた。見れば、あるべき本がどうしても見つからないといった感じでノートと書棚を何度も見比べている。書庫の空調が悪いのか、書庫の中はむやみに暑かった。Kは首筋に汗のしずくを光らせながら困った顔をして本棚を見つめている。僕はKが気のどくになって、「Kちゃん。どうしたの」と言った。するとKは、はずかしそうに微笑んで「本が見つからない」と小さな声で言った。「見せてみろ」と言って僕は、Kからノートを受け取った。ノートには参考文献名とその書架番号がメモしてあった。なるほど、この書棚にあるはずだ。僕は汗みずくになって書棚の隅から隅まで探したが、見つからない。「ないぞ。Kちゃん」と僕が言うと、Kは、「うん」とうなずき、「本がないと、レポートが間に合わない」と残念そうに言った。僕は汗をぬぐいながらKにノートを返すと、「Kちゃん。この本なら、総合図書館にもあるはずだ。探しに行こう」と言って、あきらめ顔のKを総合図書館に連れて行った。総合図書館に入り、正面の赤絨毯の大階段をふたりで登ると、書架の傍らに設置された検索端末で書名を検索する。検索画面を見ていたKが、「あった!」と声をあげて、うれしそうに笑った。「ほら。あっただろ」「うん。あった」ふたりで書架に向かう。「〇〇さん(僕の名)。時間とってごめんなさい」とKが言った。「ぜんぜんかまわない。僕は、Kちゃんのファンクラブに入ってるからね」と僕が言うと、「うそ。そんなのないです」と笑う。「あるよ。ほんとうにKちゃんのファンは何人もいるよ。ただし、ファンクラブ会長は僕だけどね」と僕がまじめな顔で言うと、「ほら、やっぱり。ファンクラブって、どうせ〇〇さんだけでしょ?」とまた笑う。実際、Kのファンはクラスに大勢いたのである。けれども彼女の気高さが、馬鹿どもに気安く話しかけることをためらわせていたのだ。Kとふたりで書棚を探すと、目あての本は一冊だけあった。すると、Kが本を手にして、「一冊しかないのに、この本を私が借りたら、私と同じテーマのレポートを書く人が困るよね」と言う。「同じテーマの人がいるのか」「ううん。わかんない。でも、同じ授業を受けてるんだから、同じテーマになっちゃう人がいるかも」「じゃ、どうするんだ」「ぜんぶ、コピーしようかな」「本一冊を?」「うん」「いや。いいんだよ。そんなことしなくていい。君が借りていいんだ。君が見つけたんだから」僕はそう言って、借りるのをためらうKに、なかば無理やりに借りさせた。Kのこころの優しさに驚きながら。図書館を出ると日が落ちていた。僕は煙草を吸いたくなって図書館入り口の喫煙所に向かいながら「じゃ、レポートがんばって」とKに言った。Kは「ありがとう」と言ってにっこり笑うと、ぺこりとおじぎをして赤門に向かって歩いて行った。

 図書館のことがあってから、僕とKとの間になんとなく共通の接点のようなものができた。といって、べつにふたりの関係が何か大きく変わったというわけではない。これまでどおり、せいぜい朝のあいさつをする程度の関係であることに変わりはない。ただ、ふっと目があったときなどには、Kがおかしそうに微笑み、僕ははずかしくなって目をそらした。そういう、かすかな感情の交流が生まれたことが、変化と言えば変化であった。その後も数回、図書館で一緒に調べものをすることがあった。論文と授業のノートを見比べながら、理論的問題をふたりで議論する。と言っても、優秀な学生であるKと不勉強の僕とでは、対等な議論にはならない。結局、僕がKに問題点を解説してもらうというかたちになってしまう。Kにとっては何のメリットもない作業であったはずだけれど、僕のつまらない意見にもKはまじめにつきあってくれた。そうこうして勉強に追われながら季節は過ぎ、大学院の課程修了となった。修了式を最後に、Kとは会っていない。

 思えば、それ以来、僕はつねにKのおもかげを追ってきた。Kに顔が似ている。Kに声が似ている。Kに頭の良さが似ている。Kにこころの優しさが似ている。Kにしぐさが似ている。Kに名前が似ている。等々、Kに似ているひとを探し求めてきた。けれども現実に出会うひとたちは、所詮Kに、ほんの一部が似ているだけであった。すべてみな、不完全であった。にせものであった。見た目だけはKのように美しく、性的な潔癖さを気取っていても、合コンに招かれると大喜びで初対面の男どもに鼻をひくつかせ、じゃれつき、だらしなく酔ってゲラゲラ笑っている発情した動物なみの女たち。Kのような優れた頭脳と経歴を持ちながらも、自己肯定のための浅薄なプライドとエリート意識ばかりを磨き、とがらせているだけで、人生と懸命に戦って負けてしまったひとびとへの優しさも共感も持たない女たち。そういう女たちに僕は何度失望させられたことだろう。にせものの女がほんものの女のふりをして、愛だの人生だのを得意顔で語るのを聞かされる以上の苦痛はこの世にあるまい。彼女たちは性欲の掃き溜めに過ぎない合コンのテーブルの下から愛を見つけようとし、男の年収と肩書に自分の人生の価値を見つけようとする。ごみ溜めを漁って宝石を探すようなものである。ごみ溜めにはプラスチックのおもちゃの指輪はあっても、ほんものの宝石など落ちてはいない。プラスチックの指輪をみつけて、ほんものの愛を見つけた!とみなに見せびらかす姿は滑稽を通り越して悲惨でありもはや嫌悪しか感じない。そんなにせものに過ぎない女たちが、安っぽい虚飾をまとって、どれだけ一流の女のふりをしようとも、そのきたならしい本性が僕にははじめから見えてしまう。なぜなら僕は、すべての美徳を兼ね備えたKを知っているから。いっさいの虚飾なしに、みずからの光だけで輝くほんものの女の気高さと美しさを知っているから。そういうKに代わる女をこの世界でいくら探しても、K以外にいるはずがなかった。

 そのKが、パソコン上の画像となっていま、再び僕の目の前にいた。十五年前と変わらぬ姿で。が、当時と違うことがひとつだけあった。ミッキーマウスと並んでいるKを撮影しているのは、Kの新婚の夫だったのである。新婚旅行先のアメリカでの記念の一枚なのだ。SNSにアップされたその記念写真を、僕はたまたま見たのである。Kが結婚した。という事実は、僕にとって、僕の偶像となっていた女神が人間の女に姿を変えて天から地に堕ちたことを意味した。けれども、女神を突然失ってしまった僕は、ふしぎと、くるしくはなかったのである。なぜなら、これでようやく僕は、女神の完全性という鎖から解放されるから。この世界に満ちる不完全なふつうのひとびとの醜さにいちいち失望しなくてもすむから。そう。僕にもわかっているのだ。Kという偶像は、僕がつくりあげたフィクションに過ぎないということを。その偶像がいま、目の前で地に堕ちた。これでようやく僕は、この世界の醜さをあきらめることができるだろう。なぜなら、あのKでさえ、不完全な人間の女に過ぎなかったのだから! 僕はいま、Kの人間の女としての幸福を祈るばかりだ。もっとも、自称、元ファンクラブ会長にすぎない僕などが祈るまでもなく、画像の中のKは、ミッキーマウスのとなりで、その幸福を全身で表現しているけれど。

No. 170311 銃とハッピーバースデー

 銃!と、教官が突き出した64式小銃を、僕は奪い取るかのようにつかみ取った。この銃が、僕のいのちを守り、敵兵を殺す。この銃を手にした瞬間、僕の存在は銃の部品の一個になる。銃が本体であり、僕は銃の引き金をひくための付属品でしかない。銃と一体化した僕はもはや人間でない。敵兵を殺すことだけを考えている機械である。機械にくるしみはない。

 大学を中途で放り出して、バッグ一つを提げて陸上自衛隊の営門をくぐったのは、僕が25歳のときだった。その当時、僕は、すべてにやぶれていた。信じるものが、なにもなかった。この世界のいっさいが、僕にとって無意味だった。愛も、友情も、信頼も、真実も、そういったものすべてが、嘘でしかなかった。嘘でつくられた世界では、ひととして生きていけぬ。と思った。くるしかった。ひとであることを捨てたかった。このきたならしい日常の世界を捨てたかった。僕は大学に退学届を出した。かつては学者になることを夢見ていた。愛する人とともに。 が、愛する人の去った孤独な部屋で、もはや何を研究する必要があろう。たとえ世界の真理を見つけ得たとしても、それがいったい、何の意味があろう。僕はチリ紙交換屋を呼んで、数百冊の本を一冊残らず引き取ってもらった。かわりにトイレットペーパーを2個もらった。段ボール箱数個分の講義ノートも、いずれは世に問いたいとひそかに書きためていた原稿類も、ぜんぶ、燃えるゴミとして捨てた。何もかも捨てた。夜、ゴミ捨て場に彼女との思い出の残る鍋や食器を捨てに行くと、ホームレスが群がって使えそうなものを漁った。好きにしてくれ。僕にはもう、意味のないものだから。がらんとした部屋に別れを告げて、夜の大学構内を歩いていると、偶然、ゼミの後輩の女子学生と会った。あ。〇〇さん(僕の名)!どうしたんですか。最近ゼミに来ないじゃないですか。と、彼女が言った。僕は、この子の名前は何だっけ、とぼんやり考えながら、ああ。おれ、大学、やめたんだよ。アパートも引き払った。と言った。彼女は、えっ!と驚き、それで、どうするんですか、と言う。べつにどうするあてもない。いまから友人のアパートに押しかけて夜を明かすつもりだ、と言うと、あたしのアパート、すぐちかくですよ。寄っていきます?と言う。寄れば、そのまま朝までいるだろう。結局、また、くるしみがはじまるだけだ。僕にはもう、そのくるしみに耐える力は残っていない。そう思って、彼女のアパートの前で別れた。彼女の名前は思い出せないままだった。それから数か月後。僕は、陸上自衛隊幹部候補生学校の営門の前に立っていた。

 入隊式がおわると、銃授与式が行われて、担当教官から幹部候補生ひとりひとりに64式小銃が授与される。授与されると言っても、教官は銃を簡単には渡してくれない。教官が、銃!と言って突き出した銃を教官の手からもぎ取り、奪い取らなければならない。そうして銃を奪い取ったその瞬間、その銃は僕の銃となり、同時に、僕はその銃の部品になるのだ。僕は、奪い取った銃の4kgの重みを両手に感じる一方で、孤独な部屋で背負いこんできたくるしみが霧のように消失していくのを感じた。

 来る日も来る日も、泥まみれの訓練が続いた。営内生活は文字どおり1分1秒を惜しむ慌ただしさだった。演習場から疲労困憊で帰隊した後も、掃除洗濯、戦闘戦技の間稽古、作戦戦術の自学研鑽といった具合で日課表は分単位のスケジュールでびっしりと埋まっており、そのすき間をぬうようにメシと風呂をすませる。消灯ラッパとともに一秒でも長く眠ろうとするが、眠った気がしないうちに起床ラッパでたたき起こされる。そしてまた、銃をかかえて泥にまみれながら地面を這いずり回る。日課表から解放される週末の午後、僕はしばしば、隊舎屋上の物干場に上がって、ぼんやりと空をながめた。風が気持ち良い。整然と並んで干されている無数の洗濯物がはたはたとはためく。青い空を白い雲が流れていく。視線をおとすと、休日だというのに駐屯地外柵をランニングする同期の姿が遠くに小さく見える。音もなく時が過ぎる。眠くなる。営内に戻って自分のベッドにごろりと横になり、そのまま昼寝する。ゆっくり寝ておこうと思う。明日からまた、厳しい訓練がはじまるから。

 冬。その日の訓練は格別、つらかった。厳寒の冷雨は、泥にまみれた僕たちを容赦なく打ちすえた。休憩時間となり、みんな寒さに震えながら、銃をかかえて3トン半トラックの荷台で雨やどりをしていた。冷雨がトラックの幌を打つ。みんな一言もなく、白い息を吐きながら黙っている。すると、雨の中、同期のひとりである女子隊員が、ひょっこりと荷台に顔を出して、「〇〇(僕の名)! 今日、〇〇の誕生日じゃん!」と僕に言った。誕生日? そうだ。そういえば、今日は僕の誕生日ではないか。僕は生まれてはじめて、自分の誕生日を忘れていた。それほど訓練の日々は、僕に自分というものを忘れさせてくれた。自分がなければ、くるしみもない。孤独というくるしみのない日々。生きて、戦って、殺すことにのみ全能力を尽くす日々。そして、青空を流れる白い雲を無心にながめることができる日々。「ハッピーバースデー!〇〇!」と言って、その女子隊員が笑った。銃をかかえた同期たちも笑った。僕も笑った。するとちょうど、休憩終わり! 下車! と教官の怒鳴り声が聞こえた。みんな、あたふたとトラックを降りた。冷雨はいよいよ強くなった。みんなの口から嘆き声がもれた。けれども僕は、雨が僕の誕生日をにぎやかに祝ってくれているような感じがして、おかしかった。そうして、どんどん降れ。もっと降れ。と思った。

No. 170310 探し求めて。なお届かず

 ふるいつきあいの友人が待つ店に入ると、なじみの子がいらっしゃいと迎えた。友人は知らない客どもにはさまれてカウンターの隅で小さくなっていたが、僕の姿を見つけると、〇〇(僕の名)遅いぞ、こっち、こっち、と僕を呼んで急に生気を取り戻し、狭苦しいカウンターからボックスへと移った。見たことのない新顔の女の子がついて、水割りをつくってくれる。まずは乾杯、と言って、飲む。新顔が、水割りをつくる。また飲む。休みなく飲む。新顔がもたもたと水割りを作るのがいらだたしいほどに、がぶがぶ飲む。早く酔いたいのである。酔って、くるしさから解放されたい。新しく入れたボトルはたちまち減っていく。

 友人が新顔につまらない冗談を言ってからかう。有名女子大生の新顔は、S新聞社の報道記者の内定をもらっているという。その新聞記者のたまごが、友人相手に時事ニュースの解説などはじめている。いまいましい世界を忘れようとして無理してがぶがぶ酒を飲んでいるのに、いまいましい時事ニュースの話を聞かされてはたまらない。バカな子だと思いながら、僕はかまわず飲む。ようやく酔ってきて、いまいましい世界がぼやけはじめる。僕のたましいがくるしさから逃れる。と、見れば、新顔は得意顔で、友人相手にアメリカ大統領選の解説をしている。友人もさすがに閉口したらしく、ちょっと、と言って手洗いに逃げた。話し相手をなくして手持無沙汰になった新顔はしかたなく、今までがぶがぶ飲むばかりでろくに会話もしなかった僕に向かって、あたし社会部を希望してるの、犯罪とか興味あるし、などと言った。犯罪に?と僕が聞くと、そう。犯罪の真相を市民に伝えたいんだよね。ほら、犯罪を美化したり、文学のテーマにしたりするじゃん。あたし、あんなの許せないんだよね。美しい犯罪なんてないんだから。犯罪と芸術を結びつけちゃダメだよね。と言う。すでに酔っぱらっていた僕は思わず言い返していた。そんなことをしたら、芸術は死ぬじゃないか。およそこの世の芸術とよばれるものは、すべて犯罪と結びついてきたじゃないか。聖書もゲーテドストエフスキーも芥川も太宰も、ぜんぶ犯罪の物語じゃないか、と。けれども新聞記者のたまごは、こんな酔っ払いの言葉などまったく理解せずに、きょとんとしていた。実につまらない。バカなことを言ってしまった。だから、おれはダメなんだ。僕は、黙りこんで、また水割りを飲む。ちょうど友人が手洗いから戻ってきて、また新顔の相手をはじめた。僕は、この有名女子大の軽薄なプライド臭がぷんぷんする小ざかしいだけの小娘に、はやくどこかに行ってほしかった。僕は、その日、この旧来の友人に、話したいことがあったのだ。僕の部下にひとりの中途採用の若い女子社員がいた。その子としばらく仕事をするうちに、その潜在する能力のすばらしさに僕は気が付いた。決して有名大出身などではない。が、これまで僕が見てきた多くの部下の中で最も優秀であった。職場にめぐまれず何度か転職を繰り返したというのだが、いままでの職場の上司どもは彼女の突出した能力を誰も見抜けなかったのかと思うと、心底あきれた。そうしてそれと同時に、僕だけが彼女の能力に気が付いたことが心底うれしかった。やっと、探し求めていた人間にめぐりあえた思いであった。そういう話を、僕は旧友に話したかったのである。が、新顔は僕たちのボックスの担当になっていたらしく、なかなか席を立たずに愚にもつかない時事ニュースの解説を続けた。

 ボトルも底をついたころ、ようやく新顔が席を立った。すでに泥酔状態の僕は、ろれつも回らずに、旧友に部下の自慢をはじめた。すばらしい子なんだ。ほんものなんだ。あんな子は、見たことがない。おれが身につけた知識も技術も、ぜんぶ伝える。やっと、見つけたんだ。すごい子なんだ。と。そういう僕の自慢話をうんうんと黙って聞いていた旧友は、もはや朦朧としている僕の耳に、ゆっくりと刻むように言った。〇〇。おまえがうれしいのはわかる。が、あくまで仕事上の話だ。いくら優秀でも、その子は、おまえじゃない。おまえの仕事上の部下にすぎない。それを、忘れるなよ。おまえのくるしみを、その子に背負わせるな。と。

 むかし僕は、僕の愛する女性に、僕のくるしみをそのまま背負わせるという過ちを犯した。彼女を僕自身と同一視したために。そうして彼女は、そのくるしみに耐え切れず、かなしみ、傷ついて、僕のもとを去った。旧友は、それと同じ過ちを繰り返すなと言うのであった。わかってる。そんなことは、わかってる。と僕は言った。心配いらない。その子は優秀なんだ。優秀すぎるほど優秀なんだ。僕のひととしての欠陥を、ちゃんと見抜いて、知っているんだ。つい先日も、僕とその子とはちょっとしたケンカをして、その子から、はっきりと言われたばかりなのだ。私は〇〇さんの友人でも恋人でもない。私と〇〇さんとは赤の他人ですから、と。赤の他人に、僕のくるしみを背負わせることはない。だから、大丈夫だ。心配はいらない。そう言いながら、泥酔した僕は、すでに意識が遠くなっていた。店のざわめきも聞こえなくなった。いまいましい世界の騒音が消えていく。そうして僕の声もまた、世界の誰にも届くことなく消えていく。赤の他人にすぎないその子にもなお届くことなく。

No. 170305 よしまつさん。

 よしまつさん。としか覚えていない。もう何十年もむかし。僕が小学校二年生の頃。よしまつさんは、クラスでいちばん、かわいい女の子だった。色白の丸顔で、二重の大きな目をしていて、髪を赤い玉のついたゴムで二つ結びに束ねていた。明るくて、いつも笑っていた。そうして、いちばん頭も良かった。だから当然、クラス中の男子がよしまつさんに憧れた。僕もそのひとりだった。けれども僕は、ひとことも彼女と話せなかった。話す資格がなかったのである。僕は、ちっとも勉強ができなかった。足し算さえよく分からなかった。さすがに母親が心配して、毎晩付きっきりで宿題の面倒をみなければならないほどだった。運動もぜんぜんできなかった。跳び箱もとべず、かけっこも一番遅かった。鉄棒は前回り以外は何一つできなかった。ドッジボールのボールを前に投げることもできず、僕の投げたボールは地面にぽたりと落ちた。勉強も運動もできない何のとりえもない僕が、何もかも優れたよしまつさんに話しかける機会など、あるはずがなかった。僕はただ、遠くから彼女を見ているだけだった。

 その日、何が僕にその勇気を与えたのか分からない。教室の掃除の時間。僕は、ほうき係で、教室の隅で、ほうきを持ってぼんやりと立っていた。その僕の前を、よしまつさんが雑巾をもって通り過ぎようとした。僕はほとんど無意識のうちに、ほうきを差し上げると、よしまつさんの頭に、ほうきの先をちょんと当てた。よしまつさんの髪がふわりと、ほうきの先にからんだ。よしまつさんが僕の方を見て、笑いながら「××××ね」と、何か言った。が、僕は、自分がやってしまったことに気が動転してしまって、よしまつさんが何を言ったのか耳に入ってこなかった。彼女のにこにこした笑顔と、何かを話す唇の動きだけが目に入ってきた。そうして、よしまつさんはそのまま、僕の前を通り過ぎて行った。僕は、ほうきを持ったまま、たった今の信じられない光景にとまどっていた。どういうわけで、憧れのよしまつさんに、そんないたずらをしたのか、自分でもさっぱり分からなかった。けれども、そんないたずらをした僕に、彼女は笑顔を返してくれた。よしまつさんは僕をきらいじゃないんだ。と、そう思って、僕はうれしくなった。すると、その直後、ひどいことが起こった。

 僕がよしまつさんにいたずらをして、よしまつさんが笑ったことを、クラスの男子たちが目撃していたのである。彼らは、幼いながらに、いや、幼いからこそ直接的に、嫉妬と怒りによる卑劣な行動にでた。愚かな彼らは、よしまつさんを取り囲み、「〇〇(僕の名)とよしまつは、けっこんするそうです!」と大声で何度も連呼してげらげら笑った。近くの浜辺をうろついているきたない野良犬の群れのようであった。よしまつさんは泣き出してしまい、自分の机に突っ伏して、次の授業がはじまるまでしくしく泣き続けた。僕は、僕のせいでよしまつさんがひどい目にあってしまったことに責任を感じて、つまらないいたずらをしたことをひどく後悔した。そうして、もう二度と、よしまつさんに迷惑をかけないように、彼女にいっさい、かかわらないようにしようと思った。

 それからしばらく経ったある日の図工の時間。僕たちは厚紙で箱をつくる工作をしていた。すると、席の離れていたよしまつさんが、どういうわけか僕の席まで来て、「テープかして」と言って、にこにこ笑った。僕は、よしまつさんがわざわざ僕のところにセロテープを借りに来たことに驚いて、あたふたしたが、先日のいたずらのことがすぐに思い出されて、僕なんかが彼女と仲良くしたらいけないんだと思って、「かさない!」と、わざと大きな声で言った。よしまつさんはちょっとかなしそうな目をしたけれど、笑顔のままで、「えー。なんでー」と言って、自分の席に戻って行った。

 それから間もなくして、よしまつさんは転校した。夏休みが終わって学校に来てみると、よしまつさんの姿はなかった。それ以来、二度と会っていない。よしまつさんの記憶は、彼女にセロテープを貸さなかったことへの後悔で終わっている。なぜ、あの時、セロテープを素直に貸してあげなかったのだろう。なぜ、あの時、つまらない意地をはって、よしまつさんにかなしい目をさせたのだろう。できることならば、あの時に戻って、セロテープを貸してあげたい。そうして、当時の彼女に聞いてみたい。僕がいたずらをしたあの時、君はいったい、何と言ったのか。と。

No. 170226 だれも救えずに。今日も、また。

 京子は、青森出身の子だった。東京の私大に進学はしたけれど、青森の実家は貧しくて学費を出せなかった。そこで京子は学費をかせぐために、まだ未成年でお酒も飲めなかったけれど、僕のかようバーでバイトをしていた。そうしてそれでも生活費が足りずに、朝夕の新聞配達をしていた。バーで深夜2時まで働き、朝5時には新聞配達をするのである。そうして昼間は学校に行き、夕方には夕刊を配達し、月末には新聞代の集金もやる。文字どおり、寝るひまもない。京子は、その年の3月に東京に出てきて以来、そんな毎日をもう数カ月続けていた。体がもつわけがなかった。僕も学生時代には住み込みの新聞配達をやって学費をかせいでいたから、それがどれだけたいへんなことか分かっていた。まして、バーでバイトしながら新聞配達を続けるなんて、無茶苦茶もいいところだ。その話を京子から聞いた僕は、無理だ、そんなんじゃ、絶対にやっていけない、と京子に断言した。そうして京子に、どうにかして、べつの方法を考えるように言った。どうしてもダメなら、青森の地元の大学に入りなおせ、とまで言った。東京でなくてもいいではないか。なぜ、そこまでして東京なのか。と。けれども、京子は、むっとした顔で僕に激しく反論した。東京に出てきたかったんだもん!東京じゃなきゃいやなんだもん!ぜったいに、青森なんかには帰らない!余計なお世話よ!と。僕も言い返した。だから、絶対に無理だと言ってるだろう!体をこわして、大学も続けられなくなって、取り返しがつかないことになるぞ。と。僕にはもう目に見えていたのである。すでに目の下に真っ黒にクマをつくって、未成年のくせにがぶがぶ酒を飲むようになって、大学の授業など出ている様子もなく、おそらくは朝の新聞配達が終わればそのまま夕方の夕刊配達の時間まで眠り込んで、夕刊が終わればバーに出てきて男たちを相手に深夜まで働く毎日の繰り返しで、何のために東京に出てきたのか、もはや目的を見失い、大学の単位もろくに取らずに進級も絶望的で、そういう不安から逃れるために飲みなれない酒をがぶがぶ飲んで、くだらない男どものくだらない下品なジョークにゲラゲラ笑って自分をごまかしている、そういう京子の心身が破綻する限界が切迫していることを、僕はひしひしと感じた。むろん、余計なお世話である。そんなことは分かっている。けれども、僕は、言わねばならぬと思った。言わねば、この子は、破滅する。いや、言ってもたぶん、この子は僕の言うことなど聞くまい。そうしていずれにしても破滅する。けれども僕は言わねばならぬ。そうしてもし、万一、彼女が僕を信じて助力を求めてくれたならば、僕は全力で彼女を救い出すつもりであった。僕は、そのバーに行くたびに、どんどんやつれていく一方の京子をしつこく説得した。けれども彼女は、頑として、僕の言うことを聞こうとはしなかった。

 寒くなった夜、僕は久しぶりにそのバーに寄った。その夜も、京子がいれば、うるさく説教してやるつもりだった。が、京子はいなかった。カウンターにすわると、となりに、みどりちゃんが座った。名前は知っているが、あまり話したことのない子だった。みどりは水割りをつくりながら、京子ね、やめたよ、と言った。なに!?と僕は思わず言った。やめた?いつ?なんで!するとみどりは、気の毒そうな顔で言った。あの子ね、アル中になってたんだって。台所で倒れているところを大家さんが見つけて救急車呼んだらしいよ。で、この間、青森の実家の親御さんが迎えに来て、青森に連れて帰っちゃったんだって。ママのところに、そういう連絡があったんだって。大学もやめるんだって。

 こうなることは分かっていた。分かりすぎるほど、分かっていた。そうして、結局、僕は、彼女を救えなかった。破滅しようとしている女が目の前にいて、何もすることができずに、僕の目の前で破滅した。それを見殺しと言うのではないのか。なぜ、無理矢理にでも、僕の貯金をはたいて金を渡さなかったのだろう。これを学費にしろ、と。それで良かったじゃないか。いや、そんな金を受け取るはずがない。いきなり赤の他人の男から大金をもらう女などいない。なぜなら、そんなことをする男は、ろくでもない下心をかくしているはずだから。女の破滅を見たくない、などという訳の分からない理由だけで多額の金を提供する男など、いるわけがないから。それが、この、きたならしい世の中のきまりごとだから。この世の中に生きる以上、この世の中のきまりごとに従わざるを得ないではないか。彼女を救いたい、などというおまえのこころを信頼する女など、この世にいるものか。しょせん、狡猾な偽善者として嘲笑され、嫌悪されるだけだ。おまえは、やるだけのことは、やった。彼女に忠告したではないか。破滅するぞ、と本気で忠告したではないか。それで十分さ。それが、この世でおまえのできる精一杯のことさ。けれども。と僕は、自分の声に反駁する。それなら、はじめから、何も言わない方がましじゃないか。何も知らないふりをして、くだらない下品なジョークで京子をゲラゲラ笑わせている方が、よほどましじゃないか。破滅する女に、おまえは破滅するぞ、とわざわざ言って、余計なお世話だと嫌悪されて、結局、女が破滅するのを見殺しにしたという忌まわしい記憶だけが残る。ひどい徒労感だ。なんというバカバカしさだ。するとまた、もうひとりの僕が、僕を嘲笑しながら言うのだ。だから、おまえは、おめでたいやつだって言うんだよ。おまえのこころからの忠告なんて、しょせん、余計なお世話なのさ。おまえがいくら彼女を心配したところで、彼女はおまえのことなんか口うるさくて気味が悪い変な客としか思ってねえよ。彼女がアル中になって台所で倒れているところを助けたのは、結局、おまえじゃないんだ。早く家賃を払えと部屋まで催促にきた大家が助けたんだ。こころから彼女を心配していたはずのおまえは何もできずに彼女を見殺しにして、家賃の取立てに来た大家が彼女を助けたなんて、いかにも皮肉じゃないか。このきたならしい世の中にぴったりな笑い話だ。しょせん、おまえは道化さ。ピエロだよ。嘲笑われているだけの、おめでたい、ピエロだ。と。

 僕は、暗澹たる気分で、みどりのつくった水割りを飲んだ。酔う気にもならなかった。これを飲んで、早く帰ろうと思った。すると、みどりが、「なんか、話すの、久しぶりだね」と言った。僕はふと我に返って、「そうだな」と言った。そういえば、この子とは、あまり話したことがない。みどりは、なんとなく、さびしそうな感じの子だった。ずいぶん若い頃に悪い男にだまされた、みたいな話を聞いたことがあったようにも思うが、今ではべつに気にもしていない様子で、ただそういう過去が、彼女の雰囲気をすこしだけさびしくしていたのかも知れない。僕はみどりに、「だって、おまえが話してくれないから。おまえ、おれを避けてただろ」と言って笑った。すると、みどりは、まじめな顔をして、「うん。だって、〇〇さん(僕の名)は京子ちゃんのことが好きなんだって思ってたから。遠慮してたの」と言った。僕はちょっと驚いて、「京子ちゃんのことが好き?おれが?」と言った。みどりは、「うん。だって、いつも、京子ちゃんと楽しそうに話してたじゃん。あたしが話しかけても、ぜんぜん、相手してくれなかったじゃん」と笑いながら言った。そうか。そうだったか。確かに僕は、ずっと京子と話していた。何とかしてこの子を破滅から救おう、と思っていた。けれどもそれは、みどりから見れば、楽しそうに話していたのか。僕は意外だった。僕は、京子と話しているときは、それこそ説得するのに一生懸命で、ちっとも楽しくはなかったから。くるしいだけだったから。けれども。その時の僕は、楽しそうだったのだ。ひとは、笑いながらくるしみを語ることもあるらしい。いや。笑いながらでなければ、そのくるしみに耐えられないのだ。僕自身が気がついていなかった、そのかなしい笑い顔を、みどりだけが見ていた。僕はみどりに聞いた。「おれは楽しそうに話してたか」みどりは言った。「うん。すごい楽しそうだった。だから、あたしも〇〇さんと話したかったのに、話せなかった」そう言って、みどりが不安そうな目で僕を見た。僕はみどりの目を見つめた。僕のこころをのぞこうとして怖がっているような目だった。良い目だ。怖がるな。おれを、信じろ。「おれと話したかったか。じゃあ、きょうは、おまえといくらでも話 すぞ」「うん」「よし。きょうは、おまえと遊ぶぞ」「うん。遊んでよ」「なに。ちゃんともう一回言え」「はい。あたしと遊んでください」「よし。いい子だ」その夜、みどりを相手に、僕は泥酔した。その後どうなったのか記憶もない。

No. 170218 その愛は10%未満

 その夜、仕事で実につまらないことがあって、いらいらして、何のためにこんな仕事をやっているんだか、何のためにいろんなことで気をつかっているんだか、何もかもがバカバカしく、ああ、つまんねえ世界だ、バカしかいねえ、おまえらのことだ、バカどもが、と、止めどなく怒りが湧いて、くやしくて、かなしくて、さびしくて、泣きたくなって、叫びたくなって、会社から地下鉄までの途中、合コン帰りか何かの酔っ払った若い男女の群れが歩道をふさいでゲラゲラ笑いながらバカ面してふらふら歩いていたから、この低能ども全員を死ぬほど殴ってやろうかという目まいがするほどの強烈な衝動にかられて、それでもどうにかその凶暴な衝動を我慢して地下鉄に乗って、イヤホンの音量全開で耳をふさぎ、ニット帽を深くかぶり、マスクで顔をおおって目を固く閉じ、いまいましいだけのバカしかいない世界を完全拒否して自分だけの空間に閉じこもり、地下鉄のゴトゴトという線路の響きだけを感じながらいつもの駅に帰り着き、地上に出て、やっぱり無理だ、飲まなきゃやってられねえ、記憶がなくなるほど飲んでぜんぶ忘れなきゃ、とてもじゃないが、このまま家には帰れねえ、と、まだボトルが残っているはずのスナックに寄って、そのドアを開けた。

 あら。いらっしゃい。久しぶりじゃん。〇〇ちゃん(僕の名)。と、カウンターのチーママが愛想よく笑った。僕は、ほっとして笑う。少なくともこの店の女たちは、いくばくかのお金を払いさえすれば、僕に不愉快な思いをさせることはないから。僕がカウンターに座ると、いらっしゃい。と言いながら見慣れない女の子がとなりに座って、水割りをつくってくれた。その子は、はい。どうぞ。と水割りを僕の前に置いて、さくらです。よろしくおねがいします。と言った。ああ。さくらちゃんね。はじめてだね。ええと。君。かわいいね。と僕がふざけると、チーママが、さくらちゃん、〇〇ちゃんはわるいひとだから、気をつけなさいよ、と言って笑った。さくらは、はい。気をつけます。と、まじめな顔で答えた。気をつけられちゃ困るんだけど、と僕は笑いながら、水割りをぐいぐい飲んだ。さくらのつくる水割りを、何杯も何杯も飲む。がぶがぶ飲む。アルコールが体中をめぐって心臓が高鳴り、暴走していた脳神経が麻痺していく。僕を不眠症に苦しませるとげとげした意識が鈍磨していく。世界が朦朧となっていく。ああ。救われる。と思う。バカどもで充満した世界の重みに押しつぶされていた僕のたましいが、ようやく息をふきかえす。ボトルがなくなる。新しいボトルをキープして、さらに飲む。ろれつが回らなくなって、目もまともに開いていない。それくらいまで酔った状態が、ちょうど良い気分だ。さくら。こら。さくら。君は、かわいいぞ。うん。僕がかわいいと言ってるんだから、かわいいんだ。などと、そんなくだらない会話を繰り返している状態が、ちょうど良い気分なのだ。そういう良い気分のときに、さくらが、おもしろいことを言った。〇〇さん。愛ってさ。愛って、100%じゃないと、ダメだよね。と。

 ん?と、僕は思わず酔っぱらった目を開いて、さくらの顔を見た。愛が100%?なにを言ってる。さくら。もっとくわしく、おれに話せ。僕がそう言うと、さくらは、ちょっと恥ずかしそうな顔で話し始めた。

 ほら。例えばさ、あたしにさ、誰か好きなひとができて、もう3年くらいつきあってるとするじゃん。でもさ、そのひとには、あたしと出会う前にも彼女がいたとするでしょ。そうしたらさ、あたし、その彼女とつきあっているときの彼までは愛せないじゃない。だって、嫌だもん。あたしの知らない女とつきあって幸せだった頃の彼のことなんて、どうでもいい。知りたくない。だから、彼から、その彼女とつきあってた期間は捨てなきゃいけない。でも、彼の彼女はその子だけじゃないかも知れない。何人もいたかも知れない。そうしたらさ、彼から捨てなきゃいけない期間が、どんどん増えちゃうわけ。で、結局、あたしが好きな彼は、彼が誰ともつきあっていなかった子どものころの彼と、あたしとつきあうようになってからの3年間だけってことになるでしょ。それって、年数で言ったら、合計でたぶん15年くらいじゃない。彼が30歳だとしたら、二分の一。50%だよ。あたしがさ、彼のことぜんぶ愛してるって言っても、ほんとうは彼の半分しか愛してないんだよ。それに、あたし、子どものころの彼なんて、何にも知らないんだから、子どもの頃の彼を含めたらダメだと思うし。そしたらさ、結局、あたしが愛してる彼は、ほんとうは、彼とあたしがつきあい始めてからの3年くらいの彼だけってわけ。それって、彼の10%だよね。しかもだよ。その3年だってさ、あたしがぜんぶ知ってるわけじゃないじゃん。あたしが知ってるのは、あたしと一緒にいるときの彼だけなんだから。仕事しているときの彼とか、ほかの友だちと遊んでいるときの彼とか知らないわけだし。そしたら、結局、あたしが愛してる彼って、彼の3%くらいじゃん。10%もないんだよ。それって、愛って言える?ね。〇〇さん。どう思う?それって、愛って言える?〇〇さんは頭良いんでしょ?東大出たんでしょ?どうなの?教えてよ。教えて!

 さくらはまじめな顔で僕を見つめていた。さくら。好きなひとがいるのか。と僕は言った。さくらは、恥ずかしそうに、うん、とうなずいた。そうか。おまえは良い子だな。彼氏を、ぜんぶ、愛したいのか。彼氏を100%愛したいのか。さくらはまた、うなずいた。そうして言った。でも、無理。だって、この前まで、一緒に住んでた彼女がいるんだもん。いやな女。最低な女。ぜったい、ゆるせない。あんな女と愛し合ってた彼は、やっぱり愛せない。だから、無理。あたしは、あのひとを、100%愛したい。100%愛せないなら、そんなの愛じゃないと思う。彼が生まれてからあたしと出会うまで、彼のぜんぶを愛せないなら、もう、いい。僕が言った。もう、いいって、なんだ、あきらめるのか?さくらは、だって、くやしいもん。と言って、泣きそうな顔でうつむいた。くるしいか。と僕が言った。くるしい!と、さくらが小さな声で、けれど激しく言った。僕はもう酔ってはいなかった。さくらが空になった僕のグラスにまた水割りをつくり始めた。僕は、さくらの横顔を見つめながら、つくづく、良い子だと思った。その少女のような幼さの残る薄紅の頬に、気高い女としてのプライドを感じた。さくらが、その白くて細いのどからしぼりだした、くるしい!という言葉の激しさが、どんな愛の言葉よりも美しかった。この子は、きっと幸せになるだろう。この子が幸せになれないとすれば、この世界にいったい何の意味があるだろう。僕は、さくらの幸せを、神に祈った。真剣に、祈った。

No. 170213 光るもの。

うすぼんやりと光るものが、僕の前に現れて、僕にたずねた。

あら。あなた。ずいぶん、くるしそうじゃないの。

なんで、いっそのこと、死なないのよ。

そんなにくるしいのなら、死ねばいいじゃない。と。

僕は答えた。

まだ、死ねないのです。

何かが、僕を待っているような気がするのです。

光るものは言った。

何も待ってやしないわ。

もう、何もないのよ。あなたには、何もない。わかってるでしょ。

僕は答えた。

いや。何かが、あるんです。僕を待っている何かが、どこかにあるんです。

それが何なのか、僕にはぜんぜん、わからないんだけれども。

光るものが言った。

バカね。それを、希望というのよ。

僕は驚いて言った。

希望? 希望だって? こんな世界に、希望だって?

光るものは言った。

そう。希望よ。あなたは、希望をもっているのよ。

希望をもっている者は、死ねない。

たましいが、死をゆるさないから。

死は、絶望した者だけがゆるされるの。

僕は、光るものにたずねた。

僕は絶望していないのかい?

光るものが言った。

そう。絶望していないから、死ねないのよ。

あなたがほんとうに絶望しているのなら、いますぐ死ねるはず。

あなたは、いますぐ死ねるの?

僕は正直に答えた。

死ねない。まだ、死ねないんだ。どうしてだろう。こんなにくるしいのに。

光るものは、微笑んで言った。

くるしいのは、あなたがまだ希望をもっているから。

あなたがくるしいことが、あなたが希望を捨てていない証拠なの。

絶望したら、くるしみもない。ただ消えたいと願うだけ。

そのときには、あたしがまた、むかえに来るわよ。

そうして、闇の中を漂うあなたのたましいをつかまえてあげる。

僕は不思議になって、光るものにたずねた。

君は、いったい誰?

光るものは、また微笑んで言った。

あなたは、あたしを知ってるはずよ。

振り返ってごらんなさい。そこにあたしはいる。と。