バナナの選択
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                バナナは、生きるために、子孫繁栄の選択権さえも人類にゆだねたんだ。 一生懸命に生きるって?                 生きる、ということにおいて、僕たちの決意なんて、 バナナの勇気の百分の一にも及ばないよ。         ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

No. 170422 そして、かなしい。

 小三の夏。僕はある犯罪をおかした。学校の備品を破壊して盗んだのである。共犯者は、T君。T君は、貧しい家の子だった。着ている服も薄汚れてすりきれて、彼自身も垢じみていて、彼に近づくといやな臭いがした。勉強もできなかった。だから、クラスのみんなはT君を嫌った。けれどもどういうわけか、僕とは仲が良かった。放課後はいつもT君と遊んだ。

 その日。僕とT君とは、放課後の校内をあちこち冒険していた。校舎の床下にもぐりこんだり、理科室の不気味な標本をのぞいたり。そうしてようやく遊び疲れて、ランドセルを背負って帰ろうとしたときである。僕はふと、理科室前に展示してある岩石標本に目をやった。そこには、人の頭ほどの大きさのいろいろな岩石の標本が、コンクリートの土台に接着されて並べてある。そのずらりと並んだ黒や灰色の岩石の列の中に、ひとつだけ、真っ白に輝く大理石の標本があった。僕は、その美しさに、はっとした。なんてきれいな石だろう、と思った。僕は大理石にくっつくほど目を近づけて、そのきらきらと光る粒子を見つめ、大理石の肌に手をあてて、その冷たさをじっと感じた。そういう僕の様子を見ていたT君が、「〇〇ちゃん(僕の名)、それ、ほしい?」と言った。「うん。ほしい」と僕は言った。ほしい、と言ったところで、僕のものになるわけがないけれど。と、思っていたら、T君は、「じゃあ、ちょっと待ってろ」と言ってどこかに走っていくと、しばらくして、両手でやっと持てるくらいの石をかかえて戻ってきた。そうして、「これで割ろう」と言った。僕は動転した。学校の展示標本なのである。割ったりしたら、どれほどの騒ぎになるか知れない。僕は「だめだめ。怒られるよ」と言った。が、T君は、僕のそんな言葉など聞いていない。クラスでただひとりの仲の良い友だちである僕のためなら、そういう僕が「ほしい」と言ったものを僕に与えてやるためならば、何だってやる。と、石をかかえて真っ赤になったT君の顔は、そう言っていた。僕はもう、T君を止めなかった。大理石がほしかったのである。T君は、渾身の力で石を持ち上げると、大理石の上に投げ落とした。ガッという音がして、石が大理石にはじかれ、大理石の白い粉が煙のように散った。失敗である。「もう一回じゃ」とT君が言った。「うん。もう一回!」と僕はT君を叱咤した。T君はふたたび、真っ赤な顔をして石を持ち上げると、勢いをつけて大理石に向けて投げ落とした。再び、ガッと音がして、大理石のかけらが飛んだ。僕は急いで、その長さ5センチほどのかけらを拾った。かけらの新たに割れた断面は、今はじめて空気にさらされて、けがれのない純潔さで真っ白にきらきらと輝いていた。僕は恍惚となった。僕のものだ。このきれいな石が僕のものになった!と、その時。「こら!何をしとるか。見てたぞ。」という理科の先生の怒鳴り声が聞こえた。

 僕とT君とは、職員室に連れて行かれた。クラス担任の若い女教師が、「何をやってたの!」とヒステリックに叫んだ。「学校のものを壊していいと思ってるの!」などと女教師は狂ったような高い声でわめきちらす。けれども、大理石のかけらは、僕の手提げ袋の底にかくしてある。見つかる心配はない。あとは、女子をヒイキしてばかりのこのバカな女教師があきらめるまで、黙りとおせばいい。T君もそのことは分かっていたらしい。だから、ふたりとも、黙っていた。ひとことも話さなかった。ついに女教師はしびれを切らして、僕とT君の頬を、平手でひっぱたいた。「何をやってたの!」それでも、ひとことも話さない。「何をやってたのか、言いなさい!」また、平手でひっぱたく。何も言わない。大理石が美しかったから。と、こんなバカな女に説明したところで、何もわかってはくれないだろう。いくらでも、たたけ。いたくないぞ。こわくもないぞ。おまえなんかには、何も言わない。

 僕とT君とは、ついにひとことも話さず、職員室から解放された。ふたりして、女教師の悪口を言いながら、いっしょに帰った。帰り道、ちょうどS川にかかる橋の上で、T君が、「あれ、見せて」と言った。「うん。いいよ」と言って、僕は、手提げ袋の底から、大理石のかけらを取り出した。その時である。あれ?と思った。これだっけ?こんな石ころだっけ?と。僕は、半信半疑な思いで、そのかけらをT君に渡した。T君は、「へえ。ふうん。きれいだね」と言って、かけらを僕に返した。僕はかけらを受け取ると、あらためてしげしげとそれを見た。べつにどうということもない白っぽいだけの石ころにすぎない。これが、大理石?もっと、きらきらしてたじゃないか。もっと、きれいだったじゃないか。なんだ、これは。こんなの、ただの石ころじゃないか。僕がほしかったのは、こんなものじゃない。なんだ、こんなもの。こんなもの、いらない!僕はいきなり、そのかけらを橋の上から川に投げ捨ててしまった。「あっ」と、T君が声をあげた。T君は、「もう、いらないの?」とふしぎそうに言った。僕は、「うん。いらない」とだけ答えた。

 それ以来。ほしくてたまらないと思っていた宝物をようやくこの手につかみとったと思って、手の中のものを見ると、べつになんでもない、どうでもいいものだった、ということを幾度、くりかえしてきただろう。さんざん苦労して、周りの人たちにまでくるしみを押しつけて、そのあげく、どうでもいいものを手にするだけで、本当にほしかったはずのものは何も手に残っていない。この徒労感。ため息。やり場のない怒り。こみあげてくる自嘲の笑い。そして、かなしい。ただ、かなしいんだ。

 

 

 

No. 170402 ちがう。こんなことじゃない。

 目の前の女ともだちが、おしゃべりをつづける。僕はビールを飲む。料理をちょいちょいとつまむ。そうして、へえ、そうなんだ、などと相づちを打ってはいるが、女の子のおしゃべりはろくに聞いていない。ビールも何回かおかわりしたが、ちっとも酔わない。それなりの値段のするコース料理もたいしておいしいとも思わない。まるでべつのことを考えている。

 その日、僕の部下である女性とケンカをしたのだ。僕の無神経な言動が、そのひとのこころを傷つけた。そうしてケンカになってしまった。口もきいてもらえない状態になってしまった。仕事どころではない。僕は、このひとの優れた能力と一流の資質にほれこんでいた。そうして、たとえ大きなお世話であろうとも僕は、僕のちからのおよぶ限り、このひとの才能を育ててやりたかった。せっかく一流の才能を持ちながら、それを自覚することなく、またそれを磨く機会に出会うこともなく、三流の生き方に流されて満足している女を見るほどつらいことはない。親であれば泣くであろう。友人であれば忠告するであろう。けれどもそもそも赤の他人にすぎない僕は、何の権利もないまま、あたかも彼女の親であり友人であるかのように、大きなお世話をやき、そのせいでかえって彼女をくるしめ、傷つけた。そしていよいよケンカになった。その日いちにち、そのことしか考えていなかった。たまたまその日は、若いガールフレンドと食事をする約束をしていた。彼女とは和解できないまま職場をあとにして店に向かった。

 女ともだちが僕を見つけて手を振って笑う。やあ、と言って僕も微笑む。けれども頭の中はケンカのことでいっぱいだ。どう謝ればいいのか。いやそもそも謝ってすむことなのか。こんなにたいせつに思っていることが、どうしてわかってもらえないのか。いやそういう考えこそが間違っているのだ。などと、無数の自問自答が猛スピードで旋回する。「もう。いま、あたしの話、聞いてた?」と、女ともだちが怒ったように言う。「聞いてるよ。そりゃ、たいへんだったね」とあわてて答える。ぜんぜん聞いてなかったのである。職場の課長にデートに誘われて困っちゃった、みたいな話をしていたと思ってそう答えたのだが、実際には、職場の部長にお昼ごはんにつきあわされて気分が悪かった、という話をしていたらしい。べつにたいした差はない。いずれにせよ、僕にとってはどうでもいいくだらない話である。若いガールフレンドは、神戸牛ヒレ肉のなんとか風なんとか焼き、みたいな一品をほおばり、「これ、おいしい!」と喜んでいる。そりゃそうだろう。ハンパな値段じゃないんだから。などと、つまらないことを考える。おいしいにきまっている高価な料理を食べて、おいしいと喜ぶ。べつに味覚を喜んでいるのではない。高級レストランで男の金で食事している自分が高級になった気になって喜んでいるにすぎない。「デートでマックとか、あり得ないし」などと言って、ややこしい名前のカクテルなど飲んでいる。若い頃、当時の恋人とマックに行くことが楽しみだった僕は、そうだね、と苦笑するしかない。ちっとも楽しくない。けれどもいつもなら、僕も女ともだちといっしょになって料理をほめて、酒に酔ってへらへら笑っていたであろう。けれどもこの日は、さすがにそんな気分にはなれなかった。ちっとも楽しくないのだ。ちがう。僕の求めていることは、こんなことじゃない。僕とはまったく違う世界で生きている女と飲み食いして、くだらない会話をして、ベタベタいちゃついても、何の意味もない。僕は、一流の女を見ていたい。一流の女が自らの光でかがやく姿を見たいのだ。この世でもっとも美しいものとは、気高いプライドをそなえた女のかがやきのことだ。ピグマリオンが自ら刻んだガラテアをみつめたように。あるいはプールナが自ら磨いたチューラナンダにいのちを捧げたように。ピグマリオンの思いは女神アフロディーテの憐れむところとなって成就した。が、プールナの願いはヤマ神の怒りにふれてチューラナンダともども一塊の石に帰した。しょせん僕の求める願いもまた、プールナ同様、みずからすすんで無限奈落に落ちるだけにきまっている。それもわかっている。なぜなら僕には、何の権利もないから。無権利者に座るべき席はない。美しい舞台をのぞき見することさえも許されない。それがこの世界のルールだ。

 若いガールフレンドと地下鉄で別れて、終電間際の電車に乗る。ふたたび頭の中で自問自答が繰り返される。明日、どういう顔で彼女に会えばいいのだろう。まだ怒っているだろうか。あたりまえだ。怒っているにきまってる。欠勤するかも知れない。僕の下で働きたくない、ということになるかも知れない。しかしそのときは上司として、彼女の希望する部署に異動できるように努力すべきだろう。いやちがう。それは、うそだ。彼女をうしなうわけにはいかない・・・と、自問自答の旋回はスピードを増すばかりだ。そしてその旋回はいまもなお、おさまる気配はない。

 

 

No. 170401 水あめと夕陽と。

 僕が幼稚園の頃住んでいた市営住宅の近くの公園には、毎夕、紙芝居屋のおっさんが自転車でやってきた。紙芝居屋のおっさんが鳴らすチリンチリンという鐘の音が聞こえると、子どもたちは10円玉を握りしめて公園に走る。公園では、おっさんの自転車の前に子どもたちが行列をつくっている。おっさんから水あめかドーナツを買うのである。子どもたちの目当ては、水あめだ。固くて甘くもないドーナツをほしがる子どもはひとりもいない。おっさんの自転車の荷台にはパチンコ台が置かれている。そのパチンコ台の上部に開いている穴に10円玉を入れると、10円玉が釘の間をころころと左右に転がりながら落ちて、水あめの穴かドーナツの穴かのどちらかに落ちる。水あめの穴に落ちれば、水あめがもらえる。こどもたちは、やった!と喜んではしゃぐ。ドーナツの穴に落ちれば、はずれだ。子どもたちはがっかりする。あんまりがっかりすると、おっさんは、もう一回やらせてくれる。それでもだめだと、またやらせてくれる。そうして結局、みんな水あめにしてくれる。水あめは、パチンコ台の下の引き出しのブリキの箱にたっぷりと入っている。おっさんは、短く切った2本の割りばしをその水あめの中にさしこんで、ぐいっとひとかきして、割りばしの先に水あめのかたまりをつけてくれる。そうして、そのかたまりの先に、ちょんと、食紅をつける。子どもたちは、その水あめを受け取ると、2本の割りばしを1本づつ左右の手で持って、水あめのかたまりをぐるぐる回し始める。そうすると、食紅が水あめのかたまり全体にまざって、透明の水あめのかたまりが徐々にピンク色になっていく。それが楽しくてたまらない。おっさんは水あめを配り終えると、荷台の箱の上に折り畳み式の舞台を開いて紙芝居を始めるのだが、子どもたちはみんな水あめをぐるぐる回すことに夢中で、だれも紙芝居なんか見ていない。水あめは、ピンク色に染まるにつれて、空気をふくんでやわらかくなり、つやつやとひかりはじめる。そうして水あめがもう割りばしから落ちそうになるほどとろけてくると、その美しくピンク色に染まった水あめのかたまりを、ぱくっと、口の中に入れて、そのまったりとした食感と甘さを堪能する。この瞬間が幸せでないとすれば、この世に幸せはないであろう。子どもたちはみな、2本の割りばしの切れ端を口に入れて、恍惚としている。おっさんはひとりで弁舌をふるってだれも聞いていない紙芝居を終えると、ぱたぱたと片づけをして、自転車に乗って去っていく。子どもたちは口に割りばしをくわえたまま、それぞれの家に帰る。あるいはそのまま、公園で遊んでいく子たちもいる。運動がちっともできない僕は、ブランコも鉄棒も大嫌いだったから、たいていはそのまま家に帰った。

 その日も、おっさんの紙芝居なんか見もせずにひたすら水あめをぐるぐる回して、ぱくっと、水あめを口に入れて至福の瞬間を堪能したあと、僕は家に向かって歩いていた。そのとき、どういうきっかけだったのかわからないが、僕は、ふっと公園を振り返った。すると、公園のむこうの空に、巨大な夕陽があった。わあ、おおきい!と思った。僕は、あんな大きな夕陽を、あの日以来見たことがない。あの日見た夕陽が、僕にとってのほんものの夕陽であり、それ以外の夕陽はすべて、にせものにしか思えない。ほんものと思える夕陽を、生涯で一度だけ見た。そしてもう、二度とはないだろう。それは、不幸ということになるのか、どうか。

 それからしばらくして、紙芝居屋のおっさんは来なくなった。水あめなどの食品の衛生状態が問題になって、保健所が禁止したという話だった。

No. 170318 そのおもかげを追って。

 パソコン画面に表示されたKの姿は、十五年前と少しも変わっていなかった。ミッキーマウスとともに、ピースサインをしている。このひとは、年をとらないのだろうか。そのSNSに一枚だけアップされていたKの写真を、僕は当惑して見つめた。

 Kは、美少女であった。としか言いようがない。ほかに形容のしようがない。といっても、実際の年齢は当時、すでに二十代半ばであったろう。東大大学院の教室で、彼女をはじめて見た。あまりひとづきあいが得意でないらしく、いつもうつむきかげんで、ひとりでいることが多く、クラスメートのくだらない冗談にも声を出して笑うということはなくにっこりと微笑む程度であった。コンパだの懇親会だのといった酒の席にはただの一度も参加することがなかった。クラスの馬鹿な男どもがしつこく参加を求めても、彼女は困った顔をして「考えとく」とだけ言って欠席した。授業態度も極めてまじめで、遅刻も欠席もなく、予習も事前課題も万全で、教授の質問にもすらすらと回答した。遅刻、欠席はあたりまえで予習もろくにせず、教授の質問にいつも冷や汗をかいていた僕などとはまことに比べようのない才媛であった。僕は彼女を見るたびに、なんてかわいい頭のいい子なんだろう。と思っていたが、と言って彼女と何らの接点もなかったから、せいぜい教室で朝のあいさつをするくらいで日々は過ぎた。

 Kをはじめて見てからすでに一年が過ぎたころであった。僕が法学部付属図書館の書庫で論文雑誌を探していたところ、たまたまKが同じ書棚で専門書を探していた。見れば、あるべき本がどうしても見つからないといった感じでノートと書棚を何度も見比べている。書庫の空調が悪いのか、書庫の中はむやみに暑かった。Kは首筋に汗のしずくを光らせながら困った顔をして本棚を見つめている。僕はKが気のどくになって、「Kちゃん。どうしたの」と言った。するとKは、はずかしそうに微笑んで「本が見つからない」と小さな声で言った。「見せてみろ」と言って僕は、Kからノートを受け取った。ノートには参考文献名とその書架番号がメモしてあった。なるほど、この書棚にあるはずだ。僕は汗みずくになって書棚の隅から隅まで探したが、見つからない。「ないぞ。Kちゃん」と僕が言うと、Kは、「うん」とうなずき、「本がないと、レポートが間に合わない」と残念そうに言った。僕は汗をぬぐいながらKにノートを返すと、「Kちゃん。この本なら、総合図書館にもあるはずだ。探しに行こう」と言って、あきらめ顔のKを総合図書館に連れて行った。総合図書館に入り、正面の赤絨毯の大階段をふたりで登ると、書架の傍らに設置された検索端末で書名を検索する。検索画面を見ていたKが、「あった!」と声をあげて、うれしそうに笑った。「ほら。あっただろ」「うん。あった」ふたりで書架に向かう。「〇〇さん(僕の名)。時間とってごめんなさい」とKが言った。「ぜんぜんかまわない。僕は、Kちゃんのファンクラブに入ってるからね」と僕が言うと、「うそ。そんなのないです」と笑う。「あるよ。ほんとうにKちゃんのファンは何人もいるよ。ただし、ファンクラブ会長は僕だけどね」と僕がまじめな顔で言うと、「ほら、やっぱり。ファンクラブって、どうせ〇〇さんだけでしょ?」とまた笑う。実際、Kのファンはクラスに大勢いたのである。けれども彼女の気高さが、馬鹿どもに気安く話しかけることをためらわせていたのだ。Kとふたりで書棚を探すと、目あての本は一冊だけあった。すると、Kが本を手にして、「一冊しかないのに、この本を私が借りたら、私と同じテーマのレポートを書く人が困るよね」と言う。「同じテーマの人がいるのか」「ううん。わかんない。でも、同じ授業を受けてるんだから、同じテーマになっちゃう人がいるかも」「じゃ、どうするんだ」「ぜんぶ、コピーしようかな」「本一冊を?」「うん」「いや。いいんだよ。そんなことしなくていい。君が借りていいんだ。君が見つけたんだから」僕はそう言って、借りるのをためらうKに、なかば無理やりに借りさせた。Kのこころの優しさに驚きながら。図書館を出ると日が落ちていた。僕は煙草を吸いたくなって図書館入り口の喫煙所に向かいながら「じゃ、レポートがんばって」とKに言った。Kは「ありがとう」と言ってにっこり笑うと、ぺこりとおじぎをして赤門に向かって歩いて行った。

 図書館のことがあってから、僕とKとの間になんとなく共通の接点のようなものができた。といって、べつにふたりの関係が何か大きく変わったというわけではない。これまでどおり、せいぜい朝のあいさつをする程度の関係であることに変わりはない。ただ、ふっと目があったときなどには、Kがおかしそうに微笑み、僕ははずかしくなって目をそらした。そういう、かすかな感情の交流が生まれたことが、変化と言えば変化であった。その後も数回、図書館で一緒に調べものをすることがあった。論文と授業のノートを見比べながら、理論的問題をふたりで議論する。と言っても、優秀な学生であるKと不勉強の僕とでは、対等な議論にはならない。結局、僕がKに問題点を解説してもらうというかたちになってしまう。Kにとっては何のメリットもない作業であったはずだけれど、僕のつまらない意見にもKはまじめにつきあってくれた。そうこうして勉強に追われながら季節は過ぎ、大学院の課程修了となった。修了式を最後に、Kとは会っていない。

 思えば、それ以来、僕はつねにKのおもかげを追ってきた。Kに顔が似ている。Kに声が似ている。Kに頭の良さが似ている。Kにこころの優しさが似ている。Kにしぐさが似ている。Kに名前が似ている。等々、Kに似ているひとを探し求めてきた。けれども現実に出会うひとたちは、所詮Kに、ほんの一部が似ているだけであった。すべてみな、不完全であった。にせものであった。見た目だけはKのように美しく、性的な潔癖さを気取っていても、合コンに招かれると大喜びで初対面の男どもに鼻をひくつかせ、じゃれつき、だらしなく酔ってゲラゲラ笑っている発情した動物なみの女たち。Kのような優れた頭脳と経歴を持ちながらも、自己肯定のための浅薄なプライドとエリート意識ばかりを磨き、とがらせているだけで、人生と懸命に戦って負けてしまったひとびとへの優しさも共感も持たない女たち。そういう女たちに僕は何度失望させられたことだろう。にせものの女がほんものの女のふりをして、愛だの人生だのを得意顔で語るのを聞かされる以上の苦痛はこの世にあるまい。彼女たちは性欲の掃き溜めに過ぎない合コンのテーブルの下から愛を見つけようとし、男の年収と肩書に自分の人生の価値を見つけようとする。ごみ溜めを漁って宝石を探すようなものである。ごみ溜めにはプラスチックのおもちゃの指輪はあっても、ほんものの宝石など落ちてはいない。プラスチックの指輪をみつけて、ほんものの愛を見つけた!とみなに見せびらかす姿は滑稽を通り越して悲惨でありもはや嫌悪しか感じない。そんなにせものに過ぎない女たちが、安っぽい虚飾をまとって、どれだけ一流の女のふりをしようとも、そのきたならしい本性が僕にははじめから見えてしまう。なぜなら僕は、すべての美徳を兼ね備えたKを知っているから。いっさいの虚飾なしに、みずからの光だけで輝くほんものの女の気高さと美しさを知っているから。そういうKに代わる女をこの世界でいくら探しても、K以外にいるはずがなかった。

 そのKが、パソコン上の画像となっていま、再び僕の目の前にいた。十五年前と変わらぬ姿で。が、当時と違うことがひとつだけあった。ミッキーマウスと並んでいるKを撮影しているのは、Kの新婚の夫だったのである。新婚旅行先のアメリカでの記念の一枚なのだ。SNSにアップされたその記念写真を、僕はたまたま見たのである。Kが結婚した。という事実は、僕にとって、僕の偶像となっていた女神が人間の女に姿を変えて天から地に堕ちたことを意味した。けれども、女神を突然失ってしまった僕は、ふしぎと、くるしくはなかったのである。なぜなら、これでようやく僕は、女神の完全性という鎖から解放されるから。この世界に満ちる不完全なふつうのひとびとの醜さにいちいち失望しなくてもすむから。そう。僕にもわかっているのだ。Kという偶像は、僕がつくりあげたフィクションに過ぎないということを。その偶像がいま、目の前で地に堕ちた。これでようやく僕は、この世界の醜さをあきらめることができるだろう。なぜなら、あのKでさえ、不完全な人間の女に過ぎなかったのだから! 僕はいま、Kの人間の女としての幸福を祈るばかりだ。もっとも、自称、元ファンクラブ会長にすぎない僕などが祈るまでもなく、画像の中のKは、ミッキーマウスのとなりで、その幸福を全身で表現しているけれど。

No. 170311 銃とハッピーバースデー

 銃!と、教官が突き出した64式小銃を、僕は奪い取るかのようにつかみ取った。この銃が、僕のいのちを守り、敵兵を殺す。この銃を手にした瞬間、僕の存在は銃の部品の一個になる。銃が本体であり、僕は銃の引き金をひくための付属品でしかない。銃と一体化した僕はもはや人間でない。敵兵を殺すことだけを考えている機械である。機械にくるしみはない。

 大学を中途で放り出して、バッグ一つを提げて陸上自衛隊の営門をくぐったのは、僕が25歳のときだった。その当時、僕は、すべてにやぶれていた。信じるものが、なにもなかった。この世界のいっさいが、僕にとって無意味だった。愛も、友情も、信頼も、真実も、そういったものすべてが、嘘でしかなかった。嘘でつくられた世界では、ひととして生きていけぬ。と思った。くるしかった。ひとであることを捨てたかった。このきたならしい日常の世界を捨てたかった。僕は大学に退学届を出した。かつては学者になることを夢見ていた。愛する人とともに。 が、愛する人の去った孤独な部屋で、もはや何を研究する必要があろう。たとえ世界の真理を見つけ得たとしても、それがいったい、何の意味があろう。僕はチリ紙交換屋を呼んで、数百冊の本を一冊残らず引き取ってもらった。かわりにトイレットペーパーを2個もらった。段ボール箱数個分の講義ノートも、いずれは世に問いたいとひそかに書きためていた原稿類も、ぜんぶ、燃えるゴミとして捨てた。何もかも捨てた。夜、ゴミ捨て場に彼女との思い出の残る鍋や食器を捨てに行くと、ホームレスが群がって使えそうなものを漁った。好きにしてくれ。僕にはもう、意味のないものだから。がらんとした部屋に別れを告げて、夜の大学構内を歩いていると、偶然、ゼミの後輩の女子学生と会った。あ。〇〇さん(僕の名)!どうしたんですか。最近ゼミに来ないじゃないですか。と、彼女が言った。僕は、この子の名前は何だっけ、とぼんやり考えながら、ああ。おれ、大学、やめたんだよ。アパートも引き払った。と言った。彼女は、えっ!と驚き、それで、どうするんですか、と言う。べつにどうするあてもない。いまから友人のアパートに押しかけて夜を明かすつもりだ、と言うと、あたしのアパート、すぐちかくですよ。寄っていきます?と言う。寄れば、そのまま朝までいるだろう。結局、また、くるしみがはじまるだけだ。僕にはもう、そのくるしみに耐える力は残っていない。そう思って、彼女のアパートの前で別れた。彼女の名前は思い出せないままだった。それから数か月後。僕は、陸上自衛隊幹部候補生学校の営門の前に立っていた。

 入隊式がおわると、銃授与式が行われて、担当教官から幹部候補生ひとりひとりに64式小銃が授与される。授与されると言っても、教官は銃を簡単には渡してくれない。教官が、銃!と言って突き出した銃を教官の手からもぎ取り、奪い取らなければならない。そうして銃を奪い取ったその瞬間、その銃は僕の銃となり、同時に、僕はその銃の部品になるのだ。僕は、奪い取った銃の4kgの重みを両手に感じる一方で、孤独な部屋で背負いこんできたくるしみが霧のように消失していくのを感じた。

 来る日も来る日も、泥まみれの訓練が続いた。営内生活は文字どおり1分1秒を惜しむ慌ただしさだった。演習場から疲労困憊で帰隊した後も、掃除洗濯、戦闘戦技の間稽古、作戦戦術の自学研鑽といった具合で日課表は分単位のスケジュールでびっしりと埋まっており、そのすき間をぬうようにメシと風呂をすませる。消灯ラッパとともに一秒でも長く眠ろうとするが、眠った気がしないうちに起床ラッパでたたき起こされる。そしてまた、銃をかかえて泥にまみれながら地面を這いずり回る。日課表から解放される週末の午後、僕はしばしば、隊舎屋上の物干場に上がって、ぼんやりと空をながめた。風が気持ち良い。整然と並んで干されている無数の洗濯物がはたはたとはためく。青い空を白い雲が流れていく。視線をおとすと、休日だというのに駐屯地外柵をランニングする同期の姿が遠くに小さく見える。音もなく時が過ぎる。眠くなる。営内に戻って自分のベッドにごろりと横になり、そのまま昼寝する。ゆっくり寝ておこうと思う。明日からまた、厳しい訓練がはじまるから。

 冬。その日の訓練は格別、つらかった。厳寒の冷雨は、泥にまみれた僕たちを容赦なく打ちすえた。休憩時間となり、みんな寒さに震えながら、銃をかかえて3トン半トラックの荷台で雨やどりをしていた。冷雨がトラックの幌を打つ。みんな一言もなく、白い息を吐きながら黙っている。すると、雨の中、同期のひとりである女子隊員が、ひょっこりと荷台に顔を出して、「〇〇(僕の名)! 今日、〇〇の誕生日じゃん!」と僕に言った。誕生日? そうだ。そういえば、今日は僕の誕生日ではないか。僕は生まれてはじめて、自分の誕生日を忘れていた。それほど訓練の日々は、僕に自分というものを忘れさせてくれた。自分がなければ、くるしみもない。孤独というくるしみのない日々。生きて、戦って、殺すことにのみ全能力を尽くす日々。そして、青空を流れる白い雲を無心にながめることができる日々。「ハッピーバースデー!〇〇!」と言って、その女子隊員が笑った。銃をかかえた同期たちも笑った。僕も笑った。するとちょうど、休憩終わり! 下車! と教官の怒鳴り声が聞こえた。みんな、あたふたとトラックを降りた。冷雨はいよいよ強くなった。みんなの口から嘆き声がもれた。けれども僕は、雨が僕の誕生日をにぎやかに祝ってくれているような感じがして、おかしかった。そうして、どんどん降れ。もっと降れ。と思った。

No. 170310 探し求めて。なお届かず

 ふるいつきあいの友人が待つ店に入ると、なじみの子がいらっしゃいと迎えた。友人は知らない客どもにはさまれてカウンターの隅で小さくなっていたが、僕の姿を見つけると、〇〇(僕の名)遅いぞ、こっち、こっち、と僕を呼んで急に生気を取り戻し、狭苦しいカウンターからボックスへと移った。見たことのない新顔の女の子がついて、水割りをつくってくれる。まずは乾杯、と言って、飲む。新顔が、水割りをつくる。また飲む。休みなく飲む。新顔がもたもたと水割りを作るのがいらだたしいほどに、がぶがぶ飲む。早く酔いたいのである。酔って、くるしさから解放されたい。新しく入れたボトルはたちまち減っていく。

 友人が新顔につまらない冗談を言ってからかう。有名女子大生の新顔は、S新聞社の報道記者の内定をもらっているという。その新聞記者のたまごが、友人相手に時事ニュースの解説などはじめている。いまいましい世界を忘れようとして無理してがぶがぶ酒を飲んでいるのに、いまいましい時事ニュースの話を聞かされてはたまらない。バカな子だと思いながら、僕はかまわず飲む。ようやく酔ってきて、いまいましい世界がぼやけはじめる。僕のたましいがくるしさから逃れる。と、見れば、新顔は得意顔で、友人相手にアメリカ大統領選の解説をしている。友人もさすがに閉口したらしく、ちょっと、と言って手洗いに逃げた。話し相手をなくして手持無沙汰になった新顔はしかたなく、今までがぶがぶ飲むばかりでろくに会話もしなかった僕に向かって、あたし社会部を希望してるの、犯罪とか興味あるし、などと言った。犯罪に?と僕が聞くと、そう。犯罪の真相を市民に伝えたいんだよね。ほら、犯罪を美化したり、文学のテーマにしたりするじゃん。あたし、あんなの許せないんだよね。美しい犯罪なんてないんだから。犯罪と芸術を結びつけちゃダメだよね。と言う。すでに酔っぱらっていた僕は思わず言い返していた。そんなことをしたら、芸術は死ぬじゃないか。およそこの世の芸術とよばれるものは、すべて犯罪と結びついてきたじゃないか。聖書もゲーテドストエフスキーも芥川も太宰も、ぜんぶ犯罪の物語じゃないか、と。けれども新聞記者のたまごは、こんな酔っ払いの言葉などまったく理解せずに、きょとんとしていた。実につまらない。バカなことを言ってしまった。だから、おれはダメなんだ。僕は、黙りこんで、また水割りを飲む。ちょうど友人が手洗いから戻ってきて、また新顔の相手をはじめた。僕は、この有名女子大の軽薄なプライド臭がぷんぷんする小ざかしいだけの小娘に、はやくどこかに行ってほしかった。僕は、その日、この旧来の友人に、話したいことがあったのだ。僕の部下にひとりの中途採用の若い女子社員がいた。その子としばらく仕事をするうちに、その潜在する能力のすばらしさに僕は気が付いた。決して有名大出身などではない。が、これまで僕が見てきた多くの部下の中で最も優秀であった。職場にめぐまれず何度か転職を繰り返したというのだが、いままでの職場の上司どもは彼女の突出した能力を誰も見抜けなかったのかと思うと、心底あきれた。そうしてそれと同時に、僕だけが彼女の能力に気が付いたことが心底うれしかった。やっと、探し求めていた人間にめぐりあえた思いであった。そういう話を、僕は旧友に話したかったのである。が、新顔は僕たちのボックスの担当になっていたらしく、なかなか席を立たずに愚にもつかない時事ニュースの解説を続けた。

 ボトルも底をついたころ、ようやく新顔が席を立った。すでに泥酔状態の僕は、ろれつも回らずに、旧友に部下の自慢をはじめた。すばらしい子なんだ。ほんものなんだ。あんな子は、見たことがない。おれが身につけた知識も技術も、ぜんぶ伝える。やっと、見つけたんだ。すごい子なんだ。と。そういう僕の自慢話をうんうんと黙って聞いていた旧友は、もはや朦朧としている僕の耳に、ゆっくりと刻むように言った。〇〇。おまえがうれしいのはわかる。が、あくまで仕事上の話だ。いくら優秀でも、その子は、おまえじゃない。おまえの仕事上の部下にすぎない。それを、忘れるなよ。おまえのくるしみを、その子に背負わせるな。と。

 むかし僕は、僕の愛する女性に、僕のくるしみをそのまま背負わせるという過ちを犯した。彼女を僕自身と同一視したために。そうして彼女は、そのくるしみに耐え切れず、かなしみ、傷ついて、僕のもとを去った。旧友は、それと同じ過ちを繰り返すなと言うのであった。わかってる。そんなことは、わかってる。と僕は言った。心配いらない。その子は優秀なんだ。優秀すぎるほど優秀なんだ。僕のひととしての欠陥を、ちゃんと見抜いて、知っているんだ。つい先日も、僕とその子とはちょっとしたケンカをして、その子から、はっきりと言われたばかりなのだ。私は〇〇さんの友人でも恋人でもない。私と〇〇さんとは赤の他人ですから、と。赤の他人に、僕のくるしみを背負わせることはない。だから、大丈夫だ。心配はいらない。そう言いながら、泥酔した僕は、すでに意識が遠くなっていた。店のざわめきも聞こえなくなった。いまいましい世界の騒音が消えていく。そうして僕の声もまた、世界の誰にも届くことなく消えていく。赤の他人にすぎないその子にもなお届くことなく。

No. 170305 よしまつさん。

 よしまつさん。としか覚えていない。もう何十年もむかし。僕が小学校二年生の頃。よしまつさんは、クラスでいちばん、かわいい女の子だった。色白の丸顔で、二重の大きな目をしていて、髪を赤い玉のついたゴムで二つ結びに束ねていた。明るくて、いつも笑っていた。そうして、いちばん頭も良かった。だから当然、クラス中の男子がよしまつさんに憧れた。僕もそのひとりだった。けれども僕は、ひとことも彼女と話せなかった。話す資格がなかったのである。僕は、ちっとも勉強ができなかった。足し算さえよく分からなかった。さすがに母親が心配して、毎晩付きっきりで宿題の面倒をみなければならないほどだった。運動もぜんぜんできなかった。跳び箱もとべず、かけっこも一番遅かった。鉄棒は前回り以外は何一つできなかった。ドッジボールのボールを前に投げることもできず、僕の投げたボールは地面にぽたりと落ちた。勉強も運動もできない何のとりえもない僕が、何もかも優れたよしまつさんに話しかける機会など、あるはずがなかった。僕はただ、遠くから彼女を見ているだけだった。

 その日、何が僕にその勇気を与えたのか分からない。教室の掃除の時間。僕は、ほうき係で、教室の隅で、ほうきを持ってぼんやりと立っていた。その僕の前を、よしまつさんが雑巾をもって通り過ぎようとした。僕はほとんど無意識のうちに、ほうきを差し上げると、よしまつさんの頭に、ほうきの先をちょんと当てた。よしまつさんの髪がふわりと、ほうきの先にからんだ。よしまつさんが僕の方を見て、笑いながら「××××ね」と、何か言った。が、僕は、自分がやってしまったことに気が動転してしまって、よしまつさんが何を言ったのか耳に入ってこなかった。彼女のにこにこした笑顔と、何かを話す唇の動きだけが目に入ってきた。そうして、よしまつさんはそのまま、僕の前を通り過ぎて行った。僕は、ほうきを持ったまま、たった今の信じられない光景にとまどっていた。どういうわけで、憧れのよしまつさんに、そんないたずらをしたのか、自分でもさっぱり分からなかった。けれども、そんないたずらをした僕に、彼女は笑顔を返してくれた。よしまつさんは僕をきらいじゃないんだ。と、そう思って、僕はうれしくなった。すると、その直後、ひどいことが起こった。

 僕がよしまつさんにいたずらをして、よしまつさんが笑ったことを、クラスの男子たちが目撃していたのである。彼らは、幼いながらに、いや、幼いからこそ直接的に、嫉妬と怒りによる卑劣な行動にでた。愚かな彼らは、よしまつさんを取り囲み、「〇〇(僕の名)とよしまつは、けっこんするそうです!」と大声で何度も連呼してげらげら笑った。近くの浜辺をうろついているきたない野良犬の群れのようであった。よしまつさんは泣き出してしまい、自分の机に突っ伏して、次の授業がはじまるまでしくしく泣き続けた。僕は、僕のせいでよしまつさんがひどい目にあってしまったことに責任を感じて、つまらないいたずらをしたことをひどく後悔した。そうして、もう二度と、よしまつさんに迷惑をかけないように、彼女にいっさい、かかわらないようにしようと思った。

 それからしばらく経ったある日の図工の時間。僕たちは厚紙で箱をつくる工作をしていた。すると、席の離れていたよしまつさんが、どういうわけか僕の席まで来て、「テープかして」と言って、にこにこ笑った。僕は、よしまつさんがわざわざ僕のところにセロテープを借りに来たことに驚いて、あたふたしたが、先日のいたずらのことがすぐに思い出されて、僕なんかが彼女と仲良くしたらいけないんだと思って、「かさない!」と、わざと大きな声で言った。よしまつさんはちょっとかなしそうな目をしたけれど、笑顔のままで、「えー。なんでー」と言って、自分の席に戻って行った。

 それから間もなくして、よしまつさんは転校した。夏休みが終わって学校に来てみると、よしまつさんの姿はなかった。それ以来、二度と会っていない。よしまつさんの記憶は、彼女にセロテープを貸さなかったことへの後悔で終わっている。なぜ、あの時、セロテープを素直に貸してあげなかったのだろう。なぜ、あの時、つまらない意地をはって、よしまつさんにかなしい目をさせたのだろう。できることならば、あの時に戻って、セロテープを貸してあげたい。そうして、当時の彼女に聞いてみたい。僕がいたずらをしたあの時、君はいったい、何と言ったのか。と。